寄稿文集 菅江真澄の足跡を訪ねる 菊地 豊

菅江 真澄

コロナ禍で移動が制限されている中、7月16日から22日まで私のふるさと秋田県八森(現八峰町)を旅してきました。旅の目的は、仙台で危篤状態にある姉のお見舞いと、江戸後期に北海道・東北地方を旅した菅江真澄の足跡を、スケッチを頼りに旅することです。今から200前菅江真澄が故郷八森をどのように旅したのか興味があったからです。

コロナ禍で県外の人との面会が制限されていることは聞いていました。私はコロナのワクチンを二回打ち抗体検査でウイルスに対する抗体の有無を確認しての旅行でした。

姉が入院している仙台での病院では遠くから弟が駆けつけたことを説明しても一切受け付けてもらえず、残念ながら姉との最後のお別れができませんでした。姉は一ヶ月以上も入院し8月11日に他界しました。確かにコロナ禍でコロナをうつさない為の処置だと思いますが、やさしさ、思いやりなど一切ない対応に残念に思いました。コロナは人の心まで変えてしまったのかと考えさせられます。

仙台を後にして秋田に入りましたが、やはり県外の人と接触することに皆さん抵抗があるようでした。事前に決めておいたアポイントメントもキャンセルされ、実家に泊まることもできませんでした。幸い地元に住んでいる同級生が、滞在中車で案内してくれたので真澄の足跡を訪ねることができました。

菅江真澄は、宝暦四年(一七五四年)頃、三河の国渥美郡で生まれたと考えられています。現在の愛知県豊橋市かその近辺にあたります。本名は白井英二だったと言われ、ほかに何種類かの名前を使っています。秋田藩を旅行してから菅江真澄と名乗っています。真澄は、江戸時代後期に入った天明三年(1783)二月末故郷を後にして東北に旅立ちました。真澄30歳の時です。故郷を離れてから秋田県仙北の地で亡くなるまで46年間旅に暮らし二度と故郷には帰って来ませんでした。真澄が旅した地は、東北・北海道で百三十種二百四十冊の書籍を残しています。故郷を離れて旅に出た理由や沢山のスケッチ、書籍を残した理由など現在も研究されています。正直言ってこれだけの偉大な人があまり知られていないことに驚きを感じます。私の故郷に三度も真澄が訪れ様々な記述をしていたことも今まで知りませんでした。

私が注目したのはなぜ故郷を後にして48年間も旅を続けたのか、その旅の引き金は何だったのかです。菅江真澄を研究している秋田県立博物館菅江真澄資料センターによると次のようなことが引き金になったのではないかと想像しています。

(1)家庭上の問題
(2)学問上の問題
(3)情報収集説
(4)業病説
(5)失恋説
(6)名勝旧跡取材説などです。

私は(1)家庭上の問題と(4)業病説(6)名勝旧跡取材説ではないかと推測しています。真澄の母は若くして亡くなり三年忌を過ぎた頃父親は再婚したと記しています。家庭的な悩みがあり旅に出るきっかけになったのではないかと想像します。業病説はレブラ(癩病)であったため、これの悪化を防ぐため、気温の低い東北へ向かったとする説もあります。真澄は終生頭巾を被っていたので「常被りの真澄」と呼ばれておりました。真澄が亡くなった際、頭巾を脱がせて確かめようとする不届きものもいましたが、そっとしておこうと頭巾を脱がせなかったと伝えられています。
(3)の情報収集説と(6)名所旧跡取材説は、真澄が好奇心旺盛で見知らぬ世界に興味をもっていたのではないかと思います。当時の北海道・東北は外国に行くのと同じだったと思います。真澄は、現在の旅行ライターのような面も持っていたのではないかと思います。江戸時代の人々の生活をスケッチに残したのは、後世にありのままの姿を残したかったのか、ただ単にスケッチを楽しんだのかは分かりません。しかし真澄のスケッチは現在の写真撮影と同じで今では貴重な資料となっています。当時の北海道・東北の人々がどのような生活を営んでいたかを知る上で大変貴重な資料です。

コロナ禍で海外との移動が制限されたお陰で菅江真澄を知ることが出来ました。故郷八森には、享和元年(1801年)、文化三年(1806年)と文化四年(1807年)の三度訪れています。真澄の図絵を頼りに、岩舘の浦、椿台、八森、目名潟を訪れました。詳しくは、私のホームページ(https://shirakamis-dream.net 未来に残したい里秋田県八峰町)に載せていきます。是非ご覧ください。真澄が常に庶民の目線で記述していることと、自分の意見を述べていないことに感銘を受けました。ありのままに伝える事はとても大切だと思います。自然を崇拝しお互いに助け合って生きる江戸時代の人々の暮らし、現代人が忘れ去ったものがなんであるかを「菅江真澄遊覧記」は教えてくれます。