第一義 平井 満夫

第一義  平井 満夫

今年は北陸新幹線が開通して話題になっている。私も一度乗ってみたいと思っていた。たまたま菊地さんに飛騨古川の春の祭りに誘われて行くことになったので、帰路は富山に出て北陸新幹線のルートにしようと思った。しかし真直ぐ東京へ帰るのではつまらない。どこか立ち寄る所はないものかと考えて、思いついたのが春日山、戦国の武将上杉謙信の居城だった。これまで私は長野から北には行ったことがない。この際高田とか直江津あたりもどんな所か見てみたいと思った。予めネットで旅程を組んでみるのも楽しいものである。

四月十九日朝東海道新幹線で名古屋へ。ここで高山線の特急「ひだ」に乗り換え飛騨古川に着いたのは午後三時前だった。先に到着していた菊地さんの出迎えを受け馴染みの旅館蕪水亭に落着く。生憎の雨模様だったが、ここの有名な夜祭り、男衆が上半身裸で「起こし太鼓」を担いで練り歩く勇壮なおみこしを目の当たりにすることが出来た。翌二十日高山線で富山に下って一泊。

二十一日朝、新装なった富山駅から北陸新幹線「はくたか」に乗る。前夜からの雨は止んで晴れるという予報だったが、相変わらず小雨は降り続いている。ものの五十分で上越妙高駅に着く。ここから「ときめき鉄道」に乗り換えて十分程度で春日山駅に着く。一緒に下りた地元の人らしい数人がどこかに消えてしまうと私一人駅の待合室に取り残された。暫く雨の降り止むのを待っていたが、一向に止みそうにないのでタクシーを呼んで車の行ける所まで行くことにした。春日山の中腹にある銅像下で降りる。

先ず目に入ったのは高い崖の上に聳え立つ上杉謙信の銅像。鎧頭巾に身を固め左手を太刀に置いて仁王立ち、正にガイドパンフレットの言葉通り、弱きをたすけ強きをくじく頼もしい武将の凛々しい姿だ。もっとも実際の謙信は小柄な人だったのではないだろうか。いつぞや戦国武将展で見た謙信着用の鎧は意外に小さかったのが印象に残っている。

さてここからは歩きである。山頂までぬかるんだ細い山道を滑らないようにゆっくりと登って行く。新緑が目の覚めるように美しい。城址と言っても石垣もなければ建物もない。城といっても大阪城や江戸城のような堂々たるものではなく、中世の山城である。三の丸、二の丸址も狭い草っ原だ。三十分足らずで山頂の本丸址に到着。下界の景色はと期待したがもやに霞んであまり見えなかった。晴れていれば眼下に直江津の街から日本海が見渡せるとガイドブックにあった。標高百八十メートルの山城だがこんな山の上に住んだ戦国の武将たちの生活はさぞかし不便だったろうと思った。もっとも彼等も普段はふもとの館に住みいざという時にのみ山城に籠ったらしい。

さて春日山からの下り道、林泉寺を目指す。麓の春日山神社を経てここからは舗装された道を歩く。小さな集落を過ぎて「林泉寺」の道標を左に曲がると突然巨大な山門が現れた。堂々たるものである。受付で案内書を貰い先ず山門をくぐる。表側の大額は「春日山」内側の額は「第一義」とあった。止みそうで止まない小雨の中、境内を散策した。広い寺域、立派な伽藍である。ここは真言宗の寺かと思っていたが、曹洞宗で永平寺の末寺だそうである。「かすがさんりんせんじ」と呼ぶ。今日は参拝客もちらほらという程度。本堂前でお祈りしてから宝物館に入ってみた。

私一人である。年配の館長さん(と言っても館員は一人も見当たらなかった)がよほど暇を持て余していたのか、私の朱印帳にすらすらと筆を走らすやいなや、よく来なさったとばかり私から受取った百円玉をちゃりんちゃりんさせながら委細構わず私を案内してくださった。

「ここで一番の宝物はこれですよ」と陳列ケースを指し示されたのは「春日山」「第一義」と大書された一対の大額である。全面黒く煤けている。これは謙信公の直筆という。藤原輝虎とある。謙信公は生涯に何度か名前を変えておられるが、これは京都に上られた頃の一番の壮年期の名前だそうである。この額は謙信公自らが寄進されたあの山門に掲げられていたものだが、後年火事にあった際、寺の僧たちが必死の覚悟で下ろした、だからこんなに煤けているとのこと。骨太で、しかし素直な字と見た。ちなみに今の山門は焼失後建て替えたもので、大額もレプリカだそうである。

続いて館長さんが「謙信公の肖像で唯一確かなのは実はこれ一枚しか無いのですよ」と示されたのは僧服でゆったりと座っておられる絵である。「謙信公は実は曹洞宗の僧侶なんです。これは亡くなられる一ヶ月前京都から絵師を呼んで画かせたと言われています」との説明。そういえば大雄山最乗寺の御真殿でご祈祷の際お坊さん方が着られる法衣と同じである。そう思うと急に親しみが出てきた。「謙信公は七歳から十四歳までこの寺を学問所として、六世天室光育大和尚のもとで厳しい薫陶をうけられ、更に十四歳まで七世益翁宗謙(やくおうしゅうけん)大和尚から第一義の真意を学ばれました。晩年益翁宗謙大和尚の一字を戴いて謙信と名を改められたのです」と館長さん。私は「謙信公が曹洞禅を修されたことはよく分かりましたが、謙信公といえば毘沙門天を信仰されたとかむしろ密教信者として有名ですよね。いつ頃から密教を修行されたのですか?」と聞いてみた。「それは成人されてからですね。高野山にも行かれていますが、かなり後年のようですね」ということだった。謙信公は元々真言密教の信者かと私は思っていたので、これはやや意外な感である。

謙信という人は信仰心に篤く、曹洞宗の僧侶だったそうだが、とはいうものの寺にこもる僧ではなかった。一国一城の主であり殺し合いの戦場を駆け巡った武将である。綺麗ごとでは済まなかったことであろう。領内の一向宗門徒に対しては厳しい弾圧をしたということも物の本で読んだように思う。敵に塩を送ったという美談も、後世に尾ひれがついた話で、実際は商取引で甲斐の商人が売ってくれというのなら売ってやればいいではないかという程度のことだったのかもしれない。そんなことを私は思いめぐらせていたが館長さんは相変わらず話しを続ける。

「謙信公のことは江戸時代にかなり美化された軍記ものが一杯出て来て、本当のところは分からんことが多いのですよ。死因も厠で脳卒中で倒れられたと言われていますが、隠密に殺されたのではないかという説もあるのです」と。そこで私は答えた。「なるほど。生涯にあれだけの戦を総大将としてやられたのだから、普通の人の何倍も神経と体力をすり減らされたことでしょう。もういい加減に普通の人間として生きたいと思っておられたのではないですかね」と。すると「あなたは面白いことを言う。そんなことを言う人は初めてだ。うん。確かにそうだったかも知れませんなあ。今夜謙信公に、今日こんなことを言った人がいましたよと報告しておきましょう、あっはっは」と館長さん。「どうぞ謙信公によろしく仰ってください」と私。館長さんはにこやかに私を送り出してくださった。

漸く小雨は止んだ。山門を出ると折りよくタクシーが迎えに来てくれていた。帰りは直江津に出て駅前で昼食でもと思って行ってみたが、案に相違してさびれている。直江津の街は想像を絶するシャッター街だ。駅前なのにとても昼食を楽しめるような店は見当たらない。地方創生と政府は言うが容易なことではないなと暗然とした気持ちになった。早々に「ときめき鉄道」に乗り、上越妙高へ。ここで新幹線の座席に落ち着いた。

帰路漸く晴れ上がって午後の光に輝くのどかな窓外の景色を見るともなしに見ながら、あの謙信公直筆「第一義」の大額を思い出していた。あれだけの大書は信念なしには書けるものではない。あれはきっと謙信公自らへの戒めの意味合いをも込めて書かれたのではあるまいかと思った。義とは人としてふみ行うべき正しい道のこと、私利私欲に捉われないこと。元々は儒教から来た字だが、釈迦の教えにも通じる言葉だ。「義あれば戦う、義無ければ戦わず」を謙信公自らの行動指針とされたのではあるまいか。謙信公は連戦連勝負け知らずの武将と伝えられるが、要は引き際を心得ていたのではなかろうか。意地悪な見方で言えば逃げ足が速かった、或いは負ける前に引いていたということかもしれない。いずれにしろ引き際を知るということは何事によらず大事なことだ。あの館長さんは今夜謙信公にお話しをすると言っておられたが、この見方は正しいかどうか聞いておいて貰いたいなと思った。

「第一義」という言葉は戦国の世に限らず現代に通じる言葉ではないだろうか。第二次大戦に於いて果たして日本に義はあったのか。義無き戦いにはまりこんで引き際を誤ったのではなかったか。そして今の日本の世相。私利私欲に走り義を重んじない輩(やから)、弱きをたすけるどころか弱いものをいじめて臆面もなく人殺しをする輩が横行している。情けないが我々現代の日本人の品性は悪くなった。「第一義」をもう一度謙信公から学び直さねばなるまい。