私の「歎異抄」 石井重夫

★『善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり』(何が善とか 悪とかいうことは、本当のところ 私にはわからない)
★『親鸞は、父母の孝養(追善供養)のためとて、一辺にても念仏まうしたること、いまださふらはず』
このような今日の社会常識でもびっくりする「過激な、実は純粋な」内容がたくさん記されている「歎異抄」ーー親鸞聖人の「純粋な」思いを私は若い頃から惹かれ親しんで「安心」をいただいてきました。

昨年秋、思いがけず「マジックの出演」のおり、右足を骨折して身動きができず、マジックが二か月ほど出来なくなりました。そのおかげで「歎異抄」をじっくり読み直すことが出来ました。そして私流に気づきました。「歎異抄」の聖人の「過激な、実は純粋な」内容が 余語老師の「過激な、実は純粋な」思いと相通じているところが多いなぁ~と。例えば、余語老師の次のような教え(「安心の生き方」「万物は不生にして調ず」)

☆『事の善悪ーーいったい、誰が決めるのか?答えられる人は  おらんでしょう。そんなものは決めようがないんです』
☆『善因善果も悪因悪果も、そうあってほしいという人間の願望  です。……因果応報ということは 何の根拠もありません。……因果を教えと受け取る必要などありません』
「歎異抄」の「過激な、実は純粋な」内容も、余語老師の「過激な、実は純粋な」思いと同様、余語老師がよく話された「人間のはからいの世界」ことではなく「天地のいのちの世界」のことだと受けとめると私のこころにスンナリと入ってきます。

「歎異抄」の『阿弥陀さま』を『天地のいのち』に、『念仏』を『坐禅』に、『往生・極楽・浄土』を『安心』にと勝手に置き換えて みると、「歎異抄」の「過激な、実は純粋な」内容が私のこころに スンナリと入ってくるのです。これも、長く余語老師の「過激な、実は純粋な」教えに 納得し親しんで『安心』をいただいて来たからだろうと私は思っています。

さらに、親鸞聖人の同胞の人々に対する「優しい、誠実な接し方」も、私のこころを和ませてくれました。例えば、九条の「唯円」との問答に私はこころ温まるものを 強く感じました。
☆『念仏を称えても喜びのこころが湧いてこないときがあります。どうしてでしょうか』と 尋ねた唯円に、聖人は「それは 信心が足りないからだよ」と 戒めるどころか、『親鸞も同じように感じるときがあるよ』とーーそして、そのわけを順を追って話されていきます。

唯円の本心から起こる疑問を正直に聖人へぶつけられる雰囲気に、そして、その疑問を誠実に受けとめられる聖人に「温か~い人柄」を私は感じました。また、その聖人の姿に、 翠風講の集いで「過激な、実は純粋な」お話をされた余語老師の「温か~い人柄」も重なってくるのでした。

以上、「マジック」と「骨折」のご縁による体験でした。

合掌