禅の道 藤田 彦三郎

禅の道 藤田 彦三郎

第五号     45・12・1

この疑問に満足のいく解答がえられませんでしたので天台座主の許しを得て山門を辞し当時支那より帰られて臨済禅を唱道されて居た建仁寺の栄西禅師の門に身を投じ禅の道に進まれることとなったのであります。時に栄西禅師七四才、道元禅師十五才でありました。栄西禅師の遷化後その高弟明全(みょうぜん)和尚に師事しましたがともにまだ究め尽さない臨済禅の奥義を栄西禅師の学ばれた支那の仏教から求めることを決意し商船に乗り込み難波より九州博多港を経て一路支那(今の中共)に向かい慣れない船旅に難儀を重ね一ヶ月後船はようやく支那の明州慶元府(みんしゅうけいげんふ)の寧波(にんほう)に着きました。禅師の御年二十四才の春でありました。

同行の明全和尚は直ちに天童山の京徳寺に向かい出立つ致しましたが禅師は暫く船に留まりました。そうした或る日阿育王山名刹広利寺の老僧で典座(てんぞ)職(衆僧の食事を司る役)和尚が訪れてきました。それで早速日本で得た修行の知識を披露し、支那の仏法を尋ねて引きとめますが老僧は阿育王山に帰ります。

この時禅師は仏法は如何なるものかを悟る一転機となるので御座います。その時の問答を禅師の書かれた典座教訓(てんぞきょうくん))(衆僧の食事を司る人はどんな事を心掛けてすべきかを教えた本であり又人生にとって何が大切かを教えた本であります)の中からその模様を次号(来年)に書きます。

「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生、皆如来の智慧徳相を具有す。然れども顚倒妄想の故に知る事能わず」

このお言葉は十二月八日釈尊が菩提樹下に端坐して夜明けの明星を一見して豁然として開発悟道されたその時言われたお言葉で仏教の根元であると同時に結論であります。この日を成道会又は臘八(ろうはつ)といって今でも一日から八日朝まで臘八接心(せっしん))(一定の期日を定めてブツ通しの坐禅すること)が厳しく行われて居ります

御尊家様お揃いでお元気で楽しい新春をお迎えくださいませ。

第13号     46・2・1

(第六号より一二号までは典座教訓の転載なので省略)

これでお分かりの様に道元禅師は今まで学問、修行というものは本を読んだり、法を聞いたり、討論したり、坐禅を組んだりすることだとばかり思って居られたやうですが修行であれ、学問であれ、それと真向に取り組んでいる姿が佛(さとり)の実相であって、修行の結果、さとりを得るのではなく又自分の修行は自分でしか出来ぬという事と時は人を待たぬ無常迅速という尊い仏法をお台所の仕事をして居る老典座より知らされ悟る事が出来たのであります。ここが日本曹洞宗道元禅師の極意の處であります。

正法眼蔵弁道話の中に

「それ修証(修行と悟り)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(仏教以外の教えを信奉するもの)の見なり。佛法には修証これ一等(修行と悟りとは全く同じ一つのこと)なり。いまも証上の修(本来成佛のさとりの上でするさとりの修行)なるゆえに、初心(佛道に入ったばかりの人)の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆえに修行の用心(心の用い方)をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれと教ふ。直指の本証(直接本来成佛のさとりにおもむくものであるから)なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば証にきはなく、証の修なれば修にはじめなし。((「修の証」で修行するだけ実現するさとりであるから、このさとりに終止がない。どこまでも修行し、どこまでもさとる。また「証の修」で本来成佛のさとりを修行するのであるから、この修行は、いつが初心ということがない。無限の過去から修行のし続けである)

ここをもて、釈迦如来、迦葉(かしょう)尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。佛法住持のあと、みなかくのごとし」

第33号     46・6・1

道元禅師は高貴な貴族の家に生まれられましたが幼少の頃、人生最大の不幸である三才にして早くも父を失い、寂しい心の満たされぬまままたもや八才の時に母までも亡くなられたのであります。幼いお心に生滅無常、変遷きわまりない人生をしみじみと感ぜられた事と存じます。

この生滅無常なる人生であるからこそ真実に生きる道を求めて出家得度なされて以来一心に修行なされたがその求道心を満たす正師は当時日本には居られなかったのです。それで栄西禅師の高弟明全和尚と共に御年二十四才の春、万里の波涛をけって命がけで異国支那に真実の佛法を求めて渡り諸山を歴訪された若き道元禅師の心中いかばかりであったで御座いましょう。

若し禅師が一老僧の言を聞かず空しく帰朝なさいましたら不出世の正師に遭う事も出来ず又禅師の様な不撓不屈の秀れた求道者を法嗣としなかったならば正法の仏法も天童山でとどまったかも分かりません。

お話は横路にそれますが、浄土真宗の御開祖親鸞聖人も同じ様な事が言われるかと思います。親鸞聖人も幼少の頃両親に死別なされ九才の春比叡山に登り出家得度なされましたがその年に栄華と権勢を誇った平清盛が世を去り四年後には平家一門は滅亡した栄枯盛衰の移り変わりの激しい時代でした。

出家以来名僧知識を求めて修行なされて聖徳太子の創建と伝えられる六角堂に百ヶ日お篭りになりここで人間としての苦悩を救う正師は法然上人しかないと定めて後あらためて百ヶ日のあいだ照る日も曇る日もひとすじに法然上人を訪ねて教えを乞いました。時に親鸞聖人お年二十九才の春でした。ご自分の救はれる道は只師法然上人の言われる事に身も心も絶対お任せする事だとの信仰を確立して浄土真宗を開かれました。

第34号    46・6・1

その絶対他力の信仰を書いた皆様御存知の本歎異抄(たんにしょうと読みます)が御座います。歎異抄は聖人の高弟唯円(ゆいえん)(茨城県水戸市河和田町報仏寺に遺跡があります)が書かれた本で当時絶対他力の信仰に疑問を持ち別に何か有難い事でもある様な邪説を称える人が聖人が亡くなられてからありましたので嘆いて書かれたのであります。最初の序文に「密かに愚案を廻らせて祖古今を勘ふるに、先師口伝の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あらんことを思うに、幸に有縁の知識に依らずば争でか易行の一門に入ることを得ん哉。全く自見の覚悟を以って、他力の宗旨を乱ること莫れ。仍て故親鸞聖人御物語の趣、耳底に留まるところ聊か之を注す。偏に同心の行者の不審を散ぜんがためなりと。云々。」

「解釈」ひそかに愚かながらも考えをめぐらして、昔聖人が御存命の頃と、なくなられた後の今とを思いくらべてみるに、この頃先師聖人の口ずからお伝えなされたまことの信心とは異なった説のおこなわれている事が歎しい事である。これでは後から道を学ぶものが聖人の教えを受け伝えしてゆくうえに疑いをいだきまどいはしないかと心配される。そうした時、若し幸いにまことの師に接する機会に恵まれなければ、どうしてこの信じやすい浄土真宗の信仰に入ることが出来ようか。まったく自分勝手な理解だけにもとづいて、宗旨を乱してはならない。そこでなくなられた親鸞聖人が生前お話しして下さったことのうち、今も耳の底にのこって忘れられない、いくつかのことを、ここに書きしるしておきたい。これもひとえに、心を同じくする念仏を申される方々の不審をのぞきたいためである」

右の序文に始まり第二章には絶対法然上人に随順して居られる事が書いてあります。信仰は命がけの真剣勝負です。