水の音 風間昭明

仏教とか或いは宗教には直接関係がないと思われるものの中にも、関係のあるものが多いと思われる。殆んどの人があまり気がつかないかもしれない。

その一例として、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」がある。俳句は世にでると一人歩きをするものといわれることがある。そこでこの古池を勝手に想像してみると――あまり大きな池ではないが、森に囲まれ周りには草の茂ったそして澄んだ水、静かで物音ひとつない池――このような池に蛙が飛び込んだ。その時の水の音があたりの静かさを打ち破り、周りに響きわたる。そのため静かさが更に深まる。
これと同じようなことが余語老師の著書「生を明らめ死を明らむるは」の中に次のように書かれています。
  『「鳥啼山更幽」という句がありましたが、これは非常に静かな山の中で鳥が鳴くと山の静寂が一時破られるわけでしょう。しかしまたその後は、余計に山の静寂が深まるという。そういうことはよく経験されるでしょう。そうしてみると、鳥が鳴くということは山の静寂が深まっていく道具だてのようなものだといえる。それと同じことで、お互いさまの間で朝から晩までやっていることがすべて天地のかざりになっているわけです。そういうふうに考えていきますと、自分の一挙手一投足の姿というもののあり方が変わってくるのですね。                           以上』

そして、この静寂が深まったものの中にあるのは、これも又、余語老師のいわれる「天地のいのちという無限のもの」、「天地根源の命(姿)」、「無は総ての本源」に通ずるものと思はれる。

この事を永平寺管主福山諦法老師は、今年の「禅の友」一月号の中で「宇宙の神秘」と書かれている。この言葉のほうが一般的には理解しやすいようだが「天地根源の姿」はより深みがあるようにも思われる。

芭蕉の「水の音」は天地の根源の命を表現しているのでしょう。良寛は芭蕉を高く評価していたと聞いたことがあるが、恐らくこの事を言ったに違いない。