曽祖父川口広蔵に想う  川口孝夫

川口広蔵翁頒徳碑       撰文作者中野敬次郎

往昔荻窪一帯の地は水利に乏しく米作に恵まれず住民久しくこれをなげいた、足柄上郡山北町岸の人川口広蔵翁その救済を発願し大いに水田を拓くため灌概用、疏水隧道の掘削を企てられる。荻窪を初め水之尾板橋風祭入生田の五村の人々を率いて天明二年に着工、よく幾多の簸難を克服し二〇年の歳月を手閲して享和二年にこの大事業を完成せられたのである。これを荻窪堰と言い全長凡そ一里三〇町、ために六〇余町歩の美田を得たが星霜百五〇年今に至ってなお繋るその恩沢に浴す。ここに翁の功徳を称えその偉業を右に刻して後昆に残す。
昭和三二年九月 小田原市長 鈴木十郎

この碑文が建つ市方神杜、西方一〇キロ先に大雄山最乗寺があります。その麓の地は足柄平野と呼ばれ穀倉地です、郷土の歴史家はこの地の恩人として財政再建者の二宮尊徳、二〇年の困苦のすえ荻窪用水を完成した川口広蔵を挙げています。広蔵は一七四九年山北に生まれ、代々農業であったが大工職人としても川村堰開発工事、酒匂川文明堤の修復にたずさわりながら測量土木工事の技術を身につけてゆきました。農閑期は竹かごザル、ミノを作り小田原へも行商して歩き、荻窪村の田畑の荒廃、貧しさに心を痛めました。用水路の必要性を考え地形調査をして川村堰の経験から、箱根湯本で早川の水を取り入れ水田開発を村人に説得しました。荻窪は今では小田原の中央部ですが当時は一五〇戸の貧村でした。広蔵の説得に村人達は最初反対しました。湯本から全長一〇・三キロ荻窪迄、山あり谷ありノミやヅル鍬で四〇箇所の安山岩盤のトンネル、谷には特別水道を要し、大勢の人夫と多額の費用が必要です。広蔵の熱意にうたれ難工事に協力を承諾し、水之尾風祭、入生田板橋の村民も同調しました。

広蔵は村民代表と小田原藩主大久保氏に出願しました。農業の増産につながると工事許可が下り広蔵は陣頭指揮をとることになりました、広蔵三四歳でした。伝承によると荻窪堰の開削は一七八二年着工し二〇年の歳月を経て一八〇二年完成、広蔵五四歳の時でした。この間、荒天も欠くことなく片道、二一キロの道を徒歩で進捗につくしました。その道中の道了尊に安全祈願詣でもあつたのではないでしょうか。

機械などない時代です、人力で進めなければならず年月を要しました。中でも水路の測量には苦心しました、見通しの悪い地形のため早川を隔てた対岸の石垣山(秀吉が小田原攻めの一夜城地)から見通し目印しに板や旗、夜は提灯で水平勾配を確認しました。隊道掘削の足元の灯りに灯油九三六リットルも使用しました。この工事で広蔵が心配したのは村人達の気持でした、難工事で不平不満を如何に励まし進めるかが大きな仕事でした。因みに工事の総工費は資料が無く不明ですが一七八二年には小田原地方で大地震があり藩も余裕が無く形式上の監督はしても財政上大きな援助はありませんでした。反面着工承認を得られた因は、地震を考慮してみると水不足に苦慮した村民が新堰工を渇望したのではないでしょうか。

荻窪用水が完成してから、とくに一九二三年関東大震災の被害にあいましたが一九二五年には復元しました。昭和になってこの水は箱根登山鉄遣の発電所に利用され、全体の半分余が利用されています。その為水路等はコンクリート改修され早川取り入れ口もローリングダムとなり水害の心配もなくなりました。荻窪用水の最も利益を受けた荻窪地区は恩人広蔵を祀って、その霊に供養する広蔵講があります。春秋彼岸には講元に集まって広蔵念仏をあげ供養を行っています。現在全国疏水百選に認定されハイキングコースとしても楽しまれています。私は春秋入生田駅より頒徳碑のある市方神杜迄、曾祖父の道を歩きます。(以上参考文献から集約)

平成二十三年一月十七日