厠屋は仏転法輪の一会なり 平井満夫

表題の言葉は正法眼蔵第五十四洗浄の巻に出て来る道元禅師のお言葉である。厠屋(しおく)とはトイレのこと。分りやすく言えば、トイレでの一挙手一投足も仏の動きである、とでも訳されようか。何気なく正法眼蔵を拾い読みしていた私にとって、このお言葉は新たな発見であった。

この巻では、道元禅師はトイレでの作法を、お尻の拭き方に至るまで実に事細かに示しておられる。例えば、大便をしている間に壁を隔てた隣と談笑したり、声をあげて放吟したり、壁に落書きをしてはいけない等、八百年ばかり前のことだが、禅師がこんな注意もしなければならないほど、昔の人は結構大らかにやっていたのだなと読んでいて可笑しかった。

これで思い当るのは、余語老師の提唱でのお話である。「或る和尚が法事の後の乱れた宴席を評して『さっきは神妙に仏様の前で拝んでいた人間が、この乱れ方はどういうことじゃ』と嘆いていたのを聞いたことがあるが、あれは皆さん、法事の席の人間と酒の席での人間とは別物と思われますか?別物と思う間はまだ分っとらん」と言われたことがある。

道元禅師のお言葉と言い、余語老師のお話と言い、共通するところを煎じ詰めると、トイレにいようと、本堂の仏前にいようと、宴の酒の席にいようと、仏は常に在る、仏に浄も不浄もないという意味であろうと私は解釈する。普通に考えると、トイレで急ぎ用を足している間は本物ではなく、仏前で威儀を正している時が本物だということであろうが、どちらも本物なのである。

どこに仏がいるだろうか、悟りはいつ得られるだろうかと我々は探し廻るが、何のことはない、仏はウンチする自分の一挙手一投足にあるのだよというのが、「厠屋は仏転法輪の一会なり」のお示しなのであろう。

さて、現実の世相は殺伐としている。ごく普通の人間がいとも簡単に人を殺す事件が後を絶たない。その度に、犯人を知る人が「あんなにおとなしい、いい人間が人を殺したなんて信じられない」とコメントしている。暗然とさせられるが、しかし、これも別に驚くことではないようである。人間の性(さが)というべきか。ジキル博士とハイドではないが、人間の脳には善性と悪魔性が同居していると脳科学は説明している。そしてこの世はどろどろとした、損得あり、競争あり、格差あり、暴力あり、愛欲ありと、それこそ何でもありの娑婆世界である。そんな世に生きてお互いにやっさもっさ苦労しているのだが、その中で心安らかに生きたいと願う者は、どうすればよいのだろうか。「情念(煩悩)をコントロールし、貪り(むさぼり)を慎み、物事を偏見なく正しく理解し、道徳的に清らかな生活を営みなさい」という釈尊の教えの核心(と私は理解している)を実践する以外に方法はない。容易ではないが、それが修行というものであろう。

修行というと、とかく寺での摂心とか、難行苦行を連想しがちであるが、娑婆世界にいれば修行しないでよいのかというと、そんなことはない。巷で泣き笑いに生きる我々の日々の一挙手一投足が修行であり、仏転法輪の一会である。「煩悩是道場」という鳩摩羅什(くまらじゅう)の言もこのことを指しているのであろう。

どうも世間では、例えば比叡山の千日回峰の様な、人間の限界に挑戦する難行苦行をむやみに崇める風潮が見受けられる。それはそれで立派な修行ではあるが、修行は我慢比べではない筈である。娑婆での修行は出家僧の厳しい修行より易しいのであろうか。そんなことはあるまい。人それぞれの生活の中で毎日何かしら自分の自我がためされる事柄が出て来るものである。だからこそ前述の釈尊の教えは重いと思う。

「お互いにあの世に行くまで精進修行でございます。元気に楽しく日暮しを致したいものでございます」我が翠風講の初代講元藤田彦三郎氏はこう述べておられる(翠風便り第一号序文)。なんとも味わい深い、いかにも人生の達人藤田さんらしいお言葉ではないだろうか。新しい年の初めにふさわしい指針として有難く受取らせて頂く。

(平成二十年一月)