仏生迦琵羅 平井 満夫

仏生迦琵羅 平井 満夫

行鉢念誦は「仏生迦琵羅」で始まる。釈尊が王子としてお生まれになったこのカピラ城とはどんなお城で、どんな王国だったのであろうか。

アーリア系民族の大移動から仏生迦琵羅に至るまでの大雑把な流れを歴史書(宮崎市定著「アジア史概説」)から抜粋してみると、「中央アジアの原野を放浪していたアーリア系民族の一大集団が、今から四千年以前、二派に分裂して新作動を起こし、その西に向かったのはイラン民族となってペルシャ高原に現れ、南に向かったのはアーリア民族となって西北インドに侵入した。アーリアとは彼ら自ら名乗るところで貴種を意味しイランと同じ語源から出たものである」「西北インドに侵入したアーリア民族は(中略)更に東に向かい土地肥沃なガンジス河流域の平野に進出した」「アーリア人のガンジス定着は今から三千年以前から始まり以後五百年ほどの間に一段落した。この時代は同時にバラモン文化の全盛時代であり(中略)多くの都市国家が出現した」「当時、ガンジス平野の北、ヒマラヤ山の麓にアーリア系のシャカ族に属する数個の都市国家があり、その一つのカピラ城主の王子として生まれたのが仏教の開祖釈迦である」とある。

いわゆる口コミ以外に情報伝達手段の無かったあの時代に、釈迦の教えがあれ程急速に広まったのは、釈迦の教説に説得力があったからなのは無論のことであるが、私は釈迦が主としてガンジス河流域の平野を歩かれたことも一つの要因ではないかと思うのである。何を今更そんな事をと思われるかもしれないが、私がこんな風に思いこむに至ったきっかけは、実は全くの偶然からだった。

それまで私は釈迦といえばヒマラヤ山の麓の小高い山の上に聳えるカピラ城という小さく貧疎な城にお生まれになり、奥深い森林で修行され、解脱後も主として山に囲まれた地域を歩まれて一生を過されたというイメージを持っていた。仏跡を訪れたことも無かったからといえばそれまでだが、仏教―深山渓谷の寺―修行僧―釈迦の連想で、漠然とそんなイメージを画いていた。

十年ばかり前のこと。息子の嫁がJAICA(国際協力機構)の職員としてネパールの首都カトマンズに単身赴任で駐在していた時だった。息子が休暇をとって彼女に会いに行くという。滅多にない機会だからと妻と私も息子について行くことにした。

十月の初めカトマンズの街はダサインというお祭りで賑わっていた。我々はポカラというヒマラヤ山脈の麓の町、日本でいえば松本のような所に飛び、そこからジープで悪路を数時間、小高い山の上の山小屋風のホテルで二泊三日を過した。ここから見上げるヒマラヤの山容は正に絶景だった。真正面にマチャプチャレというスイスのマッターホルンに似た山、左の方に遠くアンナプルナの連山が朝日を浴びて白銀に輝く時、あまりの素晴らしさに息を呑んだ。下を見ると農家がそこここに点在する。ひょっとすると釈迦のカピラ城もこんな丘の上にあったのかもしれないと想像した。

さて、そこからの帰路ポカラに戻り、小さな双発のプロペラ機でカトマンズへの直行便に乗った時のことだった。飛び立ってしばらくして飛行機が降下体制に入ってきたので、もうカトマンズかと窓越に眼をこらしたが、一向にそれらしい街は見えず、あたり一面は見渡す限り畑が広がる平野だった。そのうちに飛行機は空港に着陸してしまった。機内アナウンスも無く、パイロットだけが下りて行った。乗客はみんな眠りこけているのか誰も席を立とうともしない。外を見るとパイロットがプロペラをチェックしている。調子が悪いのだろうかと思ってふと小さな空港ビルに眼をやると、Birthplace of Gotama Buddha (仏陀生誕地)とあった。ああ、ここはルンビニなのだ。

しばらくするとパイロットが何事も無かったように戻ってきて飛行機は離陸した。釈迦の遺跡らしいものは見えないかと私は懸命に窓から覗いていた。それらしい茶色い石の平たい建物群が見えたがそれが仏跡かどうかは知る由も無かった。しかし、いずれにしても全ては一面に畑が広がる平原の真っ只中にあった。カピラ城はこんな平原にあったのだということは少なくともこれで分かった。見るからに豊かな穀倉地帯に位置している。してみるとカピラ王国は相当に豊かな国であったに違いあるまい。山深い貧村の王国を想像していた私のイメージは全く間違っていたということがよく分かった。やはり百聞は一見に如かずである。不時着という程ではないが、飛行機が予定外の着陸をしてくれたお蔭で無料でルンビニを垣間見ることが出来た。私も寄る年波だから、わざわざ仏跡を見に行くことはもうあるまいと思うと、偶然とはいえこれは貴重な経験だった。

さて、カピラ城を後にされた釈迦の足跡を行鉢念誦「常道摩掲陀。仏説波羅奈。入滅拘絺羅」に従って地図でたどってみると、入滅のクシナガラは別として、常道のマガダ国ブダ・ガヤ、仏説のバラーナシといずれも、ガンジス河流域の平野、より正確には山麓に接した平野に位置している。おそらく坐禅は山に入って静寂な叢林の中の道場の様な所でされ、説法は専ら平野でなされたのであろうと想像する。人もまばらな山峡地帯ではなく、ガンジス河流域の平野に点在する都市に住む多くの一般民衆を相手に釈迦は法を説かれたのであろう。釈迦がそこここの街角で辻説法をされると、別に人を集めるおつもりは無いのに黒山の様な人だかりがして、釈迦が歩かれるとぞろぞろとついて行ったことであろう。釈迦が貧しい山間の王国の王子ではなく、穀倉地帯の真ん中にある豊かな王国の王子の出であることで、余計に説得力があったのではなかろうか。以上は偶然がもたらしてくれた私の想像に過ぎないが、果たして歴史の真実はどうだったであろうか。

前述の歴史書には次の様な記述がある。「仏陀の教説は堕落したバラモン教にたいする革新運動の現われで、種姓の別を無視して一切の平等を唱えたのであった」

釈迦の説法は単に個人個人の心の持ち方を問う精神革命のみでなく、そもそも人間の存在とは何かを問うて、当時成熟していたバラモン文化における社会の不平等の矛盾をつき、多くの民衆の支持を得た新興宗教であり社会革命でもあったのであろう。しかも釈迦は専ら人口周密なガンジス河流域の平原地帯で法を説かれた。だからこそ、仏教が紀元前五世紀という時代に、当時としては異例の速さで、しかも釈迦の死後更に加速して、あの地方に伝播したのではなかろうか。