仏教は生き残れるか(続) 平井満夫

仏教は古代インドに於いて釈迦の教えに基づいて始まった宗教である。インドの歴史の中でアショカ王の時代(BC264-227)など仏教が隆盛を極めた時期はあったが、現代ではヒンドゥ―教が支配的で仏教はごくマイノリティーでしかない。中国に於いても、七世紀から十三世紀にかけて唐や宋の時代のように仏教が花開いた時期もあったが、現代では共産党独裁政治の影に隠れてひっそりとしている。日本に於いても、六世紀に朝鮮半島から伝来して以降歴史は古いが、現代では葬式仏教と揶揄されるように形式的な面が強く、人々の精神生活に深く入り込んでいるとは言い難い。世界的に見ても、イスラム教やキリスト教の勢力圏が伸びており、仏教の伝搬に勢いは感じられない。仏教は果たして今後も生き残れるのだろうか。

仏教は釈迦の教えに始まるが、実のところ釈迦が何を語られたのか、史実としての歴史的証拠は何一つ残っていない。全ては口伝により後世に伝えられたものである。生年についても、(BC566-486)とも或いは(BC463-383)とも言われ、百年位の差異がある。ある歴史家によると(註1)、古代のインドと中国の興味ある相違点は、両方とも略同じ位の古い歴史があるにも拘らず、中国に於いては、現実の出来事を忠実に文字で記すことに情熱を傾け、史記をはじめ信頼性のある歴史書が多くの残っているのに対して、インドの人々は輪廻転生の観念が支配的で、人生は霊魂の一時的な通過期間と見ていたから、誰が何時何処で何をしたかといった現実を書き記すことより、現実を超えた世界の方が重要だったので、文字は無かった訳ではないが、古代インドの歴史書、地理書は遺されていないとのことである。

ウエルズの世界史概説によれば、釈尊の教えは、没後は無論のこと在世中でも様々に誤り伝えられたとある。なにしろ殆ど文字がなく、全てが口コミで伝えられた時代である。さもありなんと思われる。

ともかく、口伝によって伝えられた釈迦の教えは、後世に至って膨大な量の経典として世に現れた。それらの多くは如是我聞で始まる。「私は釈迦の教えを斯の如くに聞いた」ということで、結局は経典作者の主観である。万巻の経典に釈迦の言葉が出てくるが、よく考えてみると、釈迦が生涯の間にそんなに多くの事を話せる筈もない。もし、釈迦が後世の経典を読んだとしたら、「私はこんな事をしゃべった覚えはない」と言われることも多いであろう。
にも拘らず仏教は「釈迦の教えはこうだった」と伝えて人々の信仰を得てきた。更に信仰の対象たる釈迦はブッダという存在に脱人間化され、偶像化されて行った。釈迦の教えは様々な意味に解釈され、分派化されて行った。仏教はこの様にして広がり、形作られてきた。その記述的成り立ちを木の断面にたとえれば、周辺の年輪は、はっきりしているが芯は空洞の様なものと言えようか。

釈迦の教えに基づいて始まった仏教でありながら、釈迦がなんと言われたか、確たる証拠は何も無いとすれば、仏教の信心とは一体何なのか、釈迦の教えと言えるのだろうかという疑問が出てきて当然である。この様な疑問に対してわが師、余語翠巌老師は次の様に言われた。「お釈迦様がなんと言われたか、記録の無い時代だから本当のことは誰にも分からん。お釈迦様がこう言われたといえば誰も反対せんじゃろうと後世の人が作った言葉が一杯ある。どれがごまかしで、どれがごまかしでないか、自分で見分けるしかない。しかし、たとえお釈迦様の話が全部嘘だったとしてもそこに真実があると自分が納得すれば、それを信じればよいのだ。」と。

この様な観方からすると、仏教とは釈迦の教えに名を借りた自らの死生観、人生観ということも出来るのではないだろうか。人生は苦であり、何人も生老病死という苦から逃れることは出来ないという共通の認識から出発し、苦を克服し、心安らかに生きるにはどうすればよいのか。人間の苦の根源は人間自身の煩悩にあるという心の法則に基づいて、どの様に煩悩をコントロールすれば心安らかに生きることが出来るかを教えるのが仏教ではないか。

とすれば、それは人夫々の死生観、人生観である。人夫々に仏教があると言っても過言ではあるまい。仏教にはそういう融通無碍のところがある。しかも、その元になる釈迦の教えは、科学的な思考方法に基づくものであると私は論じたことがある(註2)。釈迦の教えは、人間の心の世界における法則の発見であり、どの様にすれば人間の心をコントロール出来るかの方法を教えていると。

それは他の宗教に見られる預言者的な思考方法とは程遠いものである。釈迦自身が語った言葉を考古学的に立証する事は今や不可能であろうが、たとえそれが釈迦自身が語った言葉ではなかったにせよ、釈迦の死後、信者達が何代にも亘って語り継いで行く間に、万人に納得出来る考え方としてこの様な科学的思考方法に洗練されて行ったと見てもよいかもしれない。

表題に戻って仏教は生き残れるかどうかを考える時、余語老師がいみじくも言われた様に、仏教と、仏教を表看板にする仏教教団とは区別して考えなければならない。後者即ち信者の集まりである仏教教団には栄枯盛衰が付きまとう。衰えることもあろう、亡びることもあるかもしれない。しかし、前者即ち仏教は、人類がこの地球上に生息する限り、たとえ仏教の名を冠せずとも存続するであろう。何故なら、仏教の真理は、恰も水が高きから低きに流れるという自然の法則が不変の法則である様に、人間の心の動きの不変の法であり、政治的弾圧や宗教間の争いで抹殺出来る様なものではないからである。切られても死なないみみずの様に天地のいのちは殺すことが出来ないと表現すればよいのであろうか。
        (平成二十三年十一月)

(註1)山崎元一「世界の歴史―古代インド」中央公論社(一九九七年)
(註2)平井満夫「仏教は生き残れるか」ニュースレター第十九号(二〇〇九年九月)