仏教は生き残れるか 平井満夫

『「釈迦は科学者だった」ある時ダライ・ラマは私にこう語った』とタイム誌の特集記事(二〇〇八年三月三十一日号)は伝えている。この記事によると、ダライ・ラマは科学的に整合性のない仏教の教えは排除する、また、チベットからの亡命地、インドのダーラムサラの僧院における教育カリキュラムでは、彼は科学を重要な科目として取り入れているという。

この記事を読んで私は次の様な疑問を抱いた。「釈迦は科学者だったというが、凡そ二千五百年も前のインド北部で、科学という学問は勿論のこと、文字さえ無かった時代に生きられた釈迦が、どうして科学者だったと言えるのか。仏教は釈迦の教えに始まった宗教であるが、果たして科学技術万能の現代社会に通用するものなのであろうか。仏教は生き残れるのだろうか。もしそうなら如何にして?」

科学とは自然現象を支配する法則を見出す学問であり、技術とは科学の法則を利用して人間の利便性に供する手段であり、学問である。この定義が正しいとして、釈迦の教えに当てはめてみると、自然現象の分野ではなく、人間の心という分野で法則を発見したのが釈迦である。それはどういうことかと言うと、人間の心を不安にさせ、苦しみを与えるのは人間自身の欲望(煩悩)、広い意味で言うと情念の暴走であり、足るを知って欲望から解脱すれば(自我からの開放)、心は安らかになるという法則である。

人間は欲望に誘惑されやすいという認識にたって、釈迦はこの法則を利用して、如何にすれば情念をコントロールして苦を克服し安心を得ることが出来るかという方法について幾つかの道徳的な行動基準を開発した。例えば、彼の教えの一つ、正しく物を見よ(八正道)という教えでは、苦を克服したいと思ったら、先ずその苦という現象の原因と結果について偏見なく観察することから始めなさいということである。ここには神の出番は無い。それは科学的方法論と全く一致している。対象を「自然現象」の代わりに「人の心」に置き換えて考えると、釈迦は科学者であるのみならず、技術者であり、「科学」の定義を技術というものを包含した広い意味で捉えるなら、釈迦は科学者ということが出来ると思う。その意味で、私は冒頭のダライ・ラマの発言を理解し、同意することが出来る。

さて、上述の正しく物を見よという教えに照らして我々のこの世における存在をよく考えてみると、我々は独りで生きているのではなく、相互依存、つまり我々の周囲にある全ての物、この宇宙のあらゆる生物、無生物、(いわゆる大地有情)に依存し合って生かされているということに気がつく筈である。そうすれば自ずから寛容と慈悲の心が芽生えてくる筈である。

ところで、この科学的、平和的の釈迦の教えは、個人個人のレベルでは確かに心に響くものであるが、集団的、社会的なモーメントとしては、果たしてどれ程の影響力を持っているのだろうか。

前世紀の英国の偉大な歴史家H.G.ウエルズ(一八六六-一九四六)は著書「世界史体系」において、初期仏教が衰退した原因は指導的アイデアの欠如にあったと指摘している。これに対して、ユダヤ教は未来の約束された世界に導いて行く指導性に富んでいたが故に人々に希望を持たせたとしている。その後のインドにおける仏教の興亡史について記述した後、彼は次の様に述べている。「奇妙なことに、アーリア人の生んだこの偉大な宗教(仏教のこと)は、殆どモンゴル系民族にのみ信仰される様になり、アーリア民族自身は、本質的にはユダヤ教系に属するキリスト教やイスラム教を信じるようになった」と。一方に於いてウエルズは、「釈迦の教えはいつの日か西欧の科学との接触によって改造され純化されて、人類の将来の指針として大きな役割を果たすかもしれない」と予言的な言葉も残している。

確かに釈迦の教えには、ウエルズが指摘している様に、進歩に対するアイデアや、指導理念といったものに欠けていたかもしれない。しかし、釈迦にしてみれば、自我からの開放を追及していただけで、自分の信ずるところを彼に従って来る人達には伝えたが、自分の信念を全世界に押し付け様などという野心などもともと無かったのではなかろうか。この多民族から成る世界で、およそいかなる宗教も単一の信念を押し付けることは出来ることではないと私は思う。

科学技術は本来それがどの様に利用されようとー善用されようと悪用されようとー制約するものではない。科学技術の成果である大量破壊兵器が拡散しつつあるこの世界に於いて、人間の欲望にコントロールが効かなくなるとどんなことになるのであろうか。そんな核の惨事を持ち出すまでもなく、我々はたった今、未曾有の経済的惨事を経験したばかりではないのか。それは最新の金融工学で武装したウオール街の金融業者のコントロールが効かなくなった欲望に端を発したのではなかったか。もう一度ウエルズの言葉をかの本から借りると、「我々人類は猛獣を飼い馴らすことは出来る様になった。しかし、未だに我々自身を飼い馴らすことが出来る様には至っていない」

仏教が集団的、社会的レベルで果たしてどの程度影響力を持ち得て「我々自身を飼い馴らすこと」が出来るのか私には分らないし、仏教が将来生き残って行けるのかも分らない。しかしながら、私は問いたい。釈迦の哲学なくして果たして人類は生き残って行けるのであろうかと。

(平成二十一年七月)