不殺生について 風間昭明

この不殺生ということは良く聞くことですが、なかなか判り難いことである。昨年だったと思うがテレビで気になったことがあった。それは不殺生ということについて、瀬戸内寂聴が話しておられたことに、これは自分の手で生きものを殺さなければいいのでしょうと言っておられた。このような話では全く理解できない。難しい問題なのでしょう。また、或る大学で講演会があり、聞きに行きました。その時の講師は龍谷大学の文学部教授(名前は忘れてしまった)でした。講演の後に質問があり、不殺生とはどういうことですか?教授の答えは、お釈迦さんは肉も食べられたようですとの話でした。これ以上は何も話はなかった。

この不殺生について余語老師は明快に話しておられます。その著書「人間、考えすぎるから不自由になる」(大和出版 一九九五)の百頁に出ています。引用しますと、
人間も殺生をしないでいきることなど不可能です。肉や魚は食べない、精進料理一本でやっているといっても、大根や人参にも命はある。立派な殺生ではないかな。醤油や酢もなかでは麹菌が生きておるのだから、不殺生ならこれもつかえないことになりませんか?ものの命をとりませんなどというのは、感情論で現実感はないのです。
すると、不殺生とはどういうことになるのか。真性真滅なり、という言葉があるが、生まれることも死ぬことも天地の命の姿なのです。天地の姿が生きている姿となり、死ぬ姿となっているだけのことだ。天地の命を殺すことなどできますか。できるわけがない。不殺生戒には、「不殺生とのみ心得よ」とあるが、殺生などできない、ありえないということを心得なさいといっているのです。
南泉普願和尚が猫をぶら下げて斬ったという話があります。
     中略
禅の公案らしく、そのままうけとったのではさっぱりわかりませんが、ここでいう猫は仏性のことだとされています。これについて道元禅師は、「一刀両断あることを知って、一刀一断あることを知らず」と判定しています。一刀両断というのは、斬っても二つに切り離せないということです。斬って死んだ姿も天地の命の姿、仏性なのだから、変わりはないというわけですな。仏性は殺す、殺さないというところを超えているということです。殺す、殺さない、生きる、死ぬ、などはみんな人間のはからいだ。姿は違ってもどちらも生き通しに生きているのです。天地の一切合切は生き通しにいきている。殺せる命などは天地のなかにはないのです。生命不殺ということですな。
もちろん、だからといって命を粗末にしてもいいというものではありません。せっかく命をいただいて、こうして生きているのだから、もっとしっかり生きようと努めることは結構なことです。だが、死ぬことも天地の命であり、殺せる命などないということを抑えておけば、死に直面しても安心でいられる。

以上のようですが、生の姿も、死の姿も天地の命の姿なのです。だから天地の命を殺すことが出来ないでしょうと老師は話しておられます。難しいことですが、以上のように考えればよいのではないでしょうか。老師の人としての深さが改めて理解されます。

また、ついでながら、世間では死後「魂」があるとか、ないとかという話がありますが、天地の命を殺すことは出来ないということと合わせ考えると理解できると思います。