ドナルド・キーン先生に学ぶ  平井 満夫

京都は好きで今まであちこち訪ねたが、銀閣寺は後回しにしていた。あそこは足利義政という将軍が、応仁の乱で京都中が灰燼に帰している最中に、自分の遊興の為に、金に糸目をつけずに作った隠居場という先入観があってあまり見たいとは思わなかった。一般に日本の歴史家の間では、室町幕府の三代将軍足利義満の評価は高い。天竜寺船を出して対宋貿易を盛んにし、日本を豊かにした。金閣寺も建てたということだ。一方、五代将軍義政の評価は最低に近い。私のイメージは、金閣寺と銀閣寺では金と銀くらいの差がありそうという、多分にミーハー的のものだった。

昨年の五月、例によって京都をぶらぶら一人歩きしていた時、たまたま銀閣寺の近くに来たので寄ってみることにした。幸いお天気も良く、寺へ通じる参道の一本道は修学旅行の学生たちでごった返していた。興冷めだけれど折角来たのだから、話の種にさーっと一通り見ればいいやという気持ちで、学生たちのグループの合間を縫うように庭園を歩き始めた。

見ているうちに、おや待てよと思うようになった。とにかく美しいのである。学生たちの声が交錯する中でも、なんともえも言われぬ幽玄さを感じた。カメラのファインダーから覗いていて、人の入らないほんの一瞬を捉えてシャッターを押した(写真)。わびの味わいというか、ひなびた観音堂と庭園の静謐な調和を感じて頂ければ幸いである。金閣寺とは違った味わいである。    

この時は、とにかく人が多かったので長居は無用とばかり早々に寺を後にして、法念院の近くで湯豆腐屋に立ち寄った。ただ、このお寺はまたオフシーズンにでも見に来る価値はあるなと思ったものである。この時はそれだけのことだったのだが、その後、東京の本屋で、ふとドナルド・キーン著作集第七巻「足利義政と銀閣寺」という本が目にとまった。分厚い本だが、読み始めて大いに啓発されるところがあった。

結論を先に言うと、足利義政の再評価である。今日我々がごく身近に、当たり前の様に日常親しんでいる日本的なもの、例えば、茶の湯、それにまつわる茶碗などの陶芸品、生け花、書院作り、畳の間、障子、床の間、違い棚、庭園、水墨画、能、連歌など「日本のこころ」とも言える文化は、応仁の乱の終焉(一四七七)直後から、晩年の義政が東山山荘――銀閣寺と呼ばれるようになったのは、後の江戸時代のことらしいが――に住した約十年の間に育んだ東山文化が源流であり、この「史上最悪の将軍は、すべての日本人に永遠の遺産を残した唯一最高の将軍だった」と結論づけている。そのことを納得させる材料を、義政の生涯はもとより、当時の様々な史実の研究から詳細に説明されている。

この様な視点は、日本を外から見る眼があって、つまり日本人とは異なる眼識を持ち、しかも日本の文化、文学に造詣の深いキーン先生のような人でこそ出て来るものではないかと、改めて考えさせられた。もっとも、キーン先生は今や名実ともに日本人なのだが・・・。

義政の信仰心については、彼の浄土仏教への傾倒をキーン先生は特徴にあげておられる。義政は将軍職を辞して引退した後、禅僧として僧席に入ったが、強い観音信仰を終生捨てなかったし、禅の厳しい教えよりは、衆生救済を誓った阿弥陀仏の慈愛を説く浄土仏教に心の安らぎを得たようである。義政が東山山荘の庭園に求めたのは、この世の浄土だったのかもしれない。

思うにあの騒乱の時代、一般民衆は生きるのに必死で、坐禅どころではなかったであろう。いや、民衆のみならず、特権階級の宮廷貴族も、義政のような将軍も、誰もが必死で救いを求めていた。そして念仏にすがったのであろう。

キーン先生はまた、「日本人の美意識」という表題の随筆で、日本文学の他の国にない特徴を指摘されている。それは「かな文字」即ち字音表記文字である。「かな文字」は日本で発明され、九世紀にはほぼ完成したと見なされているが、これがあったからこそ、日本の文学は中国から輸入された漢字文化から脱皮して、日本独特のもの、あの紫式部の源氏物語に代表される日本独特の日本文学に成長して行ったのだと。

それに対して、「アジアの他の二国、朝鮮とべトナムにおいては、中国文化の軌道に落ち入り中国語を採用したために、土着語による文学は、中国語の権威によって、殆ど完膚なきまでに打ちのめされた」とキーン先生は指摘されている。

なるほど、そういうことなのか。我々が日常なんとも思わず、当たり前に使っている「かな文字」の有難さだ。今まで気がつかなかった新しい見方を示して頂いて、いやー全く、キーン先生有難うございますと申し上げたい。

そういえば、日本文学もさることながら、日本の仏教においても、「かな文字」の果たした役割は、日本仏教が、漢字文化の中国や韓国の仏教から脱皮して、最澄、空海から、源信、法然、親鸞、道元、日蓮、一遍へと、日本独特の展開をして行く過程で、大きかったのではなかろうか。例えば道元禅師の御著書は、正法眼蔵はじめ皆難解なものばかりだが、禅師としては日本人に出来るだけ分かりやすいように、かな文字を用いて書かれたのだと思う。なかでも空海に至っては、「かな文字」そのものを自ら考案開発されたということだから、この大天才の存在は日本仏教のみならず、日本文化にとって極めた大きかったということであろうか。

それはともかく、昔、余語翠厳老師に「幸せとも不幸せとも思わん時が一番幸せなんじゃ」とか「本当に眠っている時は眠っていると思わんじゃろ。思ったとしたらそれはタヌキ寝入りじゃ」と言われて、我々が無意識のうちにしている意味合いをよく考えなさいと教えて頂いたことを思い出す。似た様なことを、今度はキーン先生に教えて頂いた思いである。

(平成二十六年一月)