ガンダーラの釈迦像に魅せられて 平井満夫

お釈迦様は本当のところどんなお姿をしておられたのであろうか。仏壇の奥に鎮座まします菩薩の様なお姿ではなくて、もっと人間的なお姿を見てみたい。そんな願望を持つのはあながち私のみではあるまい。今年の春、静岡県立美術館で開催された「ガンダーラ美術とバーミヤン遺跡展」でガンダーラの仏立像を見て、これこそ私がかねがね見たかったものだと感動した。この感動をもう一度と三月の日曜日を二度にわたって新幹線で静岡まで足を運んだが、じっくり味わうことが出来て、それだけのことはあったと思っている。

会場に入ってまず接したのが、数点の仏立像であった。上の写真はそのうちの最も印象的なものである。ほぼ等身大の釈迦の石像は明らかにギリシャ彫刻の影響を受けており、その顔は眼を大きく見開き、彫りの深い鼻筋の通ったアーリヤ系民族の顔立ちで、全体に知性と気品に満ちており、正に現前する人間像としての釈迦を彷彿とさせる。釈迦はアーリヤ系の王族の出であったと伝承にあるので、むしろ実際のお姿はこの仏立像に近かったのではなかろうか。

そもそも仏像が初めてこの世に現れたのは、釈迦の死後数世紀を
経て紀元後一世紀にガンダーラ地方(現パキスタン北西部)とマトウラー地方(現インド中部)の二つ地方であったらしい。中でもガンダーラの仏像には、「ギリシャ的」で「現前する仏陀への願望」という特徴が見られるそうである。

それまでの長い間仏像が作られなかったのは何故か。静岡県立美術館館長で龍谷大学特任教授の宮治昭氏の解説によると、「悟りを得、涅槃に到達した仏陀は、もはや見ることも表すことも出来ないと考えられたからであろう。(中略)釈尊なきあと、信仰的側面で大きな役割を果たしたのは仏舎利信仰であり、仏舎利を祀るストゥーパ信仰であった。丸い大きな形のストゥーパは人々の注意を惹くのに十分であり、多くの信仰をかち得ていった」とある。ストゥーパから仏像への変遷に数世紀かかったことになる。

ガンダーラ美術が栄えたのは、この地が東西世界貿易の中心地として繁栄した紀元一世紀から三世紀頃といわれている。同じガンダーラの仏像でも「現前する仏陀」から離れて抽象化された形の菩薩像の類も今回の展示品に多く見られた。時代が下る程この傾向は強まり、仏教が中国に渡ると表情は東洋的になってくる。我々が従来馴れ親しんでいる釈迦像はこれである。

それに対して、写真に見られる様なガンダーラの仏立像の魅力は、いわば仏教に染まる前の釈迦の人間像そのものである。仏祖といわれる釈迦が仏教に染まる前というと奇異に聞こえるかもしれないが、釈迦は、「私の教えが仏教である」と云われた訳ではない。仏教は釈迦の死後に始まった(並川孝儀仏教大学教授)ことに思いを致せば不自然な表現ではない。仏教という宗教は、釈迦なきあと、弟子達によって作り上げられて来たのであって、その発展の過程で釈迦像は理想化、絶対化、普遍化、超人間化されて、菩薩、観音、如来、などに変容して行った。

そのあたりの経緯を再び宮治氏の解説から引用すると、「釈尊なきあと、仏教の伝承が出家僧たちを中心とした言葉による仏法の継承、およびそれに基づく思索的側面と、一般の在家信者たちを中心とした具体性を重んずる信仰的側面とに分かれつつ発展していったことをうかがわせる。一方で言葉を重視する思索的側面と具体的対象への帰依を重んずる信仰的側面が、相互に交渉をもったことも仏教の発展にとって重要な要因となったに違いない」

キリスト教に於いても、イエス・キリストが「私の教えがキリスト教である」と云われた訳ではない。キリストなきあと、生前のキリストに会っていないパウロによってキリスト教が広められたという点で、仏教の生成過程と相似たところがある。

仏教という宗教に染まる前の釈迦の教えとはどんなものであったであろうかということに、私はかねがね関心を持ち、私なりに探し求めてきた。仏祖としての釈尊よりは人間としての釈迦である。仏教の教えというよりは釈迦の教えと言った方が正確であろう。そんな観点からガンダーラの釈迦像は特に私の心に迫り来るものがあった。おそらく人間釈迦を表現した造形物は、長い仏像の歴史のなかでもガンダーラ初期のものしかこの世には無いのではなかろうか。その意味でもガンダーラの仏立像は貴重な美術品であり、文化遺産と言える。それらの多くが日本に所蔵されていることは嬉しいことだ。

平成二十年四月