ひろやかないとなみ   余語 翠巌

  武蔵野は今、春から夏への移り変りの中に静かに暮れようとしている。新緑のやわらかい息吹きが微風にゆれて彼の散策の行方に喜び迎える表情を示している。絣着の彼は、ゆっくりと歩を運びながら、浄水場の塔の門を入り、せまい塔の階段を上って行く。木立と民家と畑地が、武蔵野の台地のなだらかな高低を、 いろいろの形に彩っている。視野がだんだん開けてきて、それらがすばらしい落日の饗宴に憩うている中で、彼はなんともいえない深い思いに浸っている。 

彼の二十数年の生涯の中に生起したいろいろの事柄が、静かに思い出される。父の死、母とともに故郷を出たこと、母の病、他家に在った十余年のことなど、そして今、幸に東都遊学を許されてある日々など。真剣に学業に取りくまねばという思いを内にひそかに抱きながら、日々の生活はともすれば怠情に流れて行く。それを苦い思いで反省し、それではいけないという思い、誰にということもなく相すまぬという思い。そしてなお、何もかもはかなく消えて行くにすぎないという無常の思い。そういう思いの去来の中に、安定のない心をもってさまよっている彼、美しき落日の荘厳の中に立って、まわりのものと共に、夕焼の美しさにそまって荘厳をうけているようだ。 

これは私が、かって自分の若い頃のすがたを、ある雑誌に投稿した文章である。そのようなすがたをもつていた自分が、四十数年を経た今日、その間に導かれたものを思うとき、「今の一当は古の百不当の力なり」という古語を思う。弓のけいこをして、初めて矢が的にあたるようになって思うと、けいこの間、少しもあたらないながら、その努力が今あたる力を養うてくれたことに気がつく。その間の一つ一つの努力が一つも無駄のないものである。人の世のすがたもまた、 一つの無駄もないことに気がつく。間違いであっても、失敗であっても、無駄というものは一つもないことに気がつく。 

無駄とか間違いとかいうのは何を基準としていうのであろうか。現在、自分をとりまく、環境の中に伝えられている文化、その中に育ってきた自らの中の既成の観念というようなもの、何か地上的な自分の目標、そういうものを基準としていることである。 

されど、宗教的世界が、地上的なものからの横超にあることに気がつくと、内側ばかりに気をとられていた自分に愛想をつかして、いわゆる開かれた世界に到る。開かれた世界の中での遊戯三味であることに気がつくと、地上的な一切のいとなみ、善も悪も、間違いも失敗も、それらが許されてある上においてのいとなみということに気がついて、広やかな、あたたかな思いの上での日々になる。そういう思いが四十数年間の仏教的思索、特に禅門における教えの中で育てられたように思う。 

(昭和四十九年)余語翆巌著「去来のまま」より