御垂示 道について 余語 翠巖

「釈迦牟尼仏 明星を見て悟道して曰く、『我与大地有情と同時に成道す』」

『伝光録』冒頭の書き出しである。仏教の流れの源頭に立つ見明星悟道の話である。瑩山禅師の提示にきく。

「いわゆる我というは、釈迦牟尼のみにあらず、釈迦牟尼仏もこの我より出生しきたる、ただ釈迦牟尼仏出生するのみにあらず、大地有情も、みなこれより出生す、大綱をあぐるとき、衆目ことごとくあがるがごとく、釈迦牟尼仏成道するとき、大地有情も成道す、ただ大地有情成道するのみにあらず、三世諸仏もみな成道す、恁麼なりといえども釈迦牟尼仏において成道のおもいをなすことなし。」

この章における主意は、仏教でいう道について述べたものであり、これが全章を貫く趣旨であり、さらには仏教窮極の目あてである。この提唱の中の「我」というのは、この「道」を意味する。 

道というときに、私共はどういうものを考えるであろうか。技術というものも、すべて道まで高めらるべきだといわれる。剣道も柔道も、茶道もそれぞれ道とされる。道といわれる時に、それは技術とは異った世界を表現しているように思われる。しかし、外から見えるものはそれぞれの外のすがたである。剣道は剣のさばき、茶道はお茶の煎(た)て方である。剣道の道、茶道の道は説明を超えている。道というものはすべてそういうものである。

南泉禅師の「平常心是道」という言葉にきいて見よう。この語は、ややもすると私共日常のすがたをいうように誤解されているが、日常の流転の心をいうのではない。平常心は絶対等であり恒不変の心である。相対を絶した絶対のもの、それを心と名づける。それは私共日常の感覚の中に知覚されるものではない。「闇の夜に啼かぬ烏の声きけば、生れぬ前の父ぞ恋しき母ぞ恋しき」という古歌の意味するところである。ひるがえって思えば、生死流転の中におり、七転び八起きの生活をしている私共から、その存在の根元が知覚されることは不可能である。知覚されるというのは「わかる」ことであり、わかるということは絶対を分けて考えることであり、分けられた部分は全体の一部であっても、全体ではない。『荘子』に「混沌七(きょう)を穿たれて死す」とあり、のっぺらぼうに目鼻をつけることは、のっぺらぽうを殺すことだという。無限を無限にして、絶対をこま切れにしないということである。個人の知覚となり得たものは、すべて有限相対に堕する。されどまた生死流転のすがたそのものが、絶対の荘厳である。仏国土のかざりである。瑩山禅師の『信心銘拈提』の中に「鳥啼山更幽」とある。山の絶対のしじまは、鳥の啼く声によって、さらにその幽を増す。鳥の啼く声は静寂の外にあるのではない、一如なのだといわれる。そのように「我」と大地有情と同時成道と示される。絶対と相対とは始めから一如なので、一切の有限のものは、無限絶対のかざりとして動いている。成道とは、そのままにて完しということである。

道というのは先の方に目あてをもって歩いて行くのでなく、脚下すべて道であるということである。それが「当人の知覚に混ぜざらしむることは静中の無造作にして直証なるをもてなり」(『正法眼蔵』辨道話)とあるように、道と同生し同参するから、意識に上らないとされる。あたかも地球上に住む私共が、非常なスピードで地球と共に回っていても、それに気がつかぬことと似ている。同生し同参する故である。道の中におり、道の中の七転八倒であっても、それに気がつかぬことである。それを「釈迦牟尼仏において成道のおもいをなすことなし」といわれる。

(昭和四十三年六月)  伝光録 提唱より抜粋

(余語翠巖好夢集「去来のまま」より)