いつの時代でも、時代の風潮をなげく声をきく。自分達の生きている時代は、危機に満ちて、なげかわしいことが多いなどと言う。その原因をあれこれと考えることは、現在にかぎったことではないようである。そしてそれを正すのが、道徳、教育、宗教であると言う。人問のすがたは、思えば所詮凡夫であると、そこに落ちついておれば、それは「なまけもの」だ、と責められる。人問離れをしているようなすがたを人に求めて、それが理想であるなどと言いながら、所謂人間臭のあるすがたを見つけて親しみ易さを覚えたりする。「たてまえ」と「ほんね」が使いわけられてゆく。

人間、生きておるどんづまりは、主義、主張などと一言うものからはるかに遠い。いろいろと修行し鍛錬して、自ら悟り、特殊技能を習得することをめあてとするものもいる。一方には、そんなことをするいとまのないものもいる。お互は特殊技能者などになることは必要ではない。「かくの如きものが、かくの如く生きている」ことに氣付けば、それが生かされてあると云うことである。

環「たまき」の中はからっぽである。よくもの通す。塞がることはない。お互に、余計な主義主張をもたぬことである。いつも「からっぽ」でおればよいことである。天地の絶妙の摂理の中に安んじておることである、それが「虚」と云うことである。歴史を学ぶと云うことは、このことに気がつくことである。

雑誌「大雄」 1982年新緑号巻頭言より