河頭に水を売る   余語 翠巌

古語に「河頭に水を売る」というのがある。濁り川のほとりで、きれいな水を売るというようなことではない。水はきれいなものという時代のことである。誰もお金をつかって買うものはいない。無駄事である。余計なつまらぬことである。そこで売られている水というのは、何をいうのであろうか。社会に生い育って来た法律、道徳、文化のたぐいである。生ずべくして生じた事であるが、生ずべくしてというのは、いつのころからか、我の意識が出来てきて、私共の生きているすがたが、ぎくしゃくしてきて、そこに規則をつくって、できたのが、法律や道徳であるから、当然そこに規則が生まれて、云われるように、命の自由がなくなってくるという。団体生活には当然のことであるが、自由な生涯にあこがれるには又別途の道が模索される。

自己のすがたに徹することである。比較の中に生きている世間相場だと、ねたみ、憎しみなどの心にゆり動かされることになるが、自分のすがたに安住してみれば、それはそれという世界である。

河の流れに随って、十分水足りてあるすがたを会得して見れば、河頭に売っている水をほしがらぬ。放てば手に満てりと示されてある。ある人の曰く、「春の野に咲くすみれの花が、美しいとか、役に立つとか云うのは、御自由であるが、それはすみれ自体の問題ではない」と。いつもこのような自由の天地におりたいと思う。

幸というのは、或は不幸というのは外にあるのではない。そのことの見える心の窓の開けることが、御信心と云うことである。

1979年9月
(余語翠巌老師著 「去来のまま」より)