青天白日悞人多     余語翠巖

(せいてんはくじつひとをあやまることおおし)

これは大智禅師(十三世紀の終りから十四世紀の初め頃の人。熊本の出身。大本山総持寺の開祖螢山禅師の孫弟子にあたる)の偈頌の中にある句です。
雲一つないような青天白日の天気のもとで、あまりにはっきりしている真昼間のことは、かくしごとも何にもない。ところがしかし、あんまりあっけらかんとしていると、かえってそこには何かあるんじゃないかと詮索心みたいなものが起こってくるのですね。実相は青天白日のごとく明らかなものです。でも、あまり明らかだと、受けとりがたいようですね。

坐禅をしている時に、あっちこっちからいろんな音が聞こえてきます。坐禅をしていて頭がからっぽになるなんてあり得ないことなんだから、いろいろ聞こえてきます。無心になるなんていうが、起きていれば五感は働いているし、頭も働いています。それをやめるわけにはいかん。人間だから。それが自然の姿です。人間の体は寝ていてもちゃんと心臓は動いているし、息はしているし、そうなっているのが内臓の自然の姿です。それを止められはしません。坐禅していてもなんやかや思い出すわけです。

坐禅の功徳は尽大だといった人がいます。料理屋の女将さんが三年前の貸金を思い出したというのがあって、なかなか功徳があったと喜んでいたといいます。ずうっと連想していくわけです。そういうふうになっているのが普通です。そんなこと思ったらいけないと思ってやめようと思ったら、余計に思うようになるのです。皆さんもやってみてごらんなさい。無限にその思いは広がっていくもんです。

それをやめようと思うのは、これは妄想です。妄想でも、放っておけぱそれで済んでしまうのです。放っておけば素直なもので、無限に動いていくのです。大空の中で雲が動いているようにしていれば、それでいいというわけです。無心無我なんていうことになったつもりでからっぽになりましたなんていう人がいたら、それは精神異常です。

お互いのこの体というのは、公にできているのです。鼻でも、自分の好きな臭いだけかぐというわけにはいかないでしょう。耳でも、うるさいと言わないまでも、聞きたくなくてもみんな入ってくるのです。そのように公にできているのです。それを自分で勝手にしようと思うから具合悪いのです。体というものは自分の勝手にならないのです。 明白なものですが、迷いが生じるようになっているのでしょうか。

迷いが生じたら、迷っている者は困るから迷わんようになりたいと思う。迷うとか迷わんとかいうのは、これは末の話です。もっと本源にいけば、「悟上得悟の漢あり」といって、悟りの上に悟りを得ていく人がいる。一方では「迷中又迷の漢あり」と迷いの中にまた迷っていく人がいるというように書いてありますが、両方とも同じことです。人間のはからい心、綾模様なのです。はからい心にまかせている限り、いろんなことがあるわけです。それはそのまま飾りになるような、一番元のもの、青天白日の姿が分かってくると、それが綾模様に展開している姿だと思えるわけです。

(余語翠巖「道はじめより成ず」地湧社より)