修行せんといかんと考える人。よく永平寺の修行なんかがテレビに出るでしょ。こういう人は言わば「はみ出し人」というか、落ちこぼれなんです。人間は何もしなくても生まれながらにして整うておる。参同契(さんどうかい)の契(かい)です。別に修行なんかしなくても救われておるのです。それを「どうもこれではいかんのではないか」と本来の人間から離れてしまう。そうすると修行せんと元に帰れないという気になる。迷い出すと修行せんといかんという気になるのです。

三十年も寺で修行せんと救われんというようなことでは、それは宗教ではない。修行なんかせんでも救われておるのです。初めから整うておるのです。それから迷い出すことはないんだけれども、人間は迷い出す。迷うから修行せんといかんように考えてしまう。極端に言うと、そういう人は「はみ出し人」なんです。

厳しい修行をする僧に問い詰める。「修行して何になる?」「修行して人のために尽くしたいと思います」「人のために尽くしてどうする?」どんどん問い詰めて行くと答えに窮してしまう。

どんづまりまで考えれば、人間は何もせんでも生きて行くのです。生きるためには食わねばならん。食うためには働かなければならんということはあるでしょうが、それは別にして、どんづまりまで行けば人間は何もせんでも生きて行くのです。何かをしなければ生きて行けないという「何か」は無いのだ。

「何かに縛られている。解放されて自由になりたい」という人がいる。よくよく考えてみると、他人に縛られているのではなくて、自分で縛っていることに気付くのです。

そういう縛っておる自分から解放されたら本当に自由な、自由闊達な人間になる。これが一番いいんでしょうな。別にそうならなければならんという訳ではないが・・・。なりたかったらなればよいというだけのことだが・・・。まあそうなれば人間、楽でしょうなあ・・・。

修行も「何かのために修行する。修行して何かになる」ということでは駄目です。修行自体、今生きておること自体が目当てでないと本当ではない。何かの目当てのために修行するのではなく、今生きておること、修行している自分そのものが目当てなんです。

遊びがそうだ。何かの目当てのために遊ぶ人はおらんでしょう。そういう人もおるにはおるでしょうが、普通は遊ぶこと自体が目当ての筈だ。子供の遊びがそうでしょ。あれが本当の遊びです。本当は何もせんでも整うておるのです。

意識の無い時、迷いは無い。眠ってる時は眠ってるという意識は無いでしょう。あったらそれは狸寝入りじゃ。二つになっている時が迷いです。相手と一つになって行じておれば迷いは無い。誰それのために何かをするという意識は持たんことです。

般若心経の初めに「行深般若波羅蜜多時・・・度一切苦厄」」とあるでしょう。般若波羅蜜多を行ずる時、一切の苦厄から解放されるという意味です。行じていること自体で苦厄から解放されているのです。この行じるというのは普通に行動しているという意味ですよ。

本当の自由というのは、自由放任のしたい放題という姿ではない。見た目には不自由な姿でも、心は自由闊達に解放されているということがあるのです。

(一九八五年十月十日 余語老師のご提唱より。表題は編集者がつけたもの)