御垂示 道について 余語 翠巖

 従容録第四則である。本則の大意は、釈尊が、お弟子達と路を歩まれている時、御手を以て大地を指さして、此処へきれいなお寺を建てるとよいな、と云われる。お供をしておった帝釈天さまが、一本の草をもって来て、俎上にさして釈尊に向ってさあお寺が建ちましたよと、申されると、釈尊はほほえまれた、というのである。

漂々とした味が溢れている。お寺を建てるということは仲々容易なことではない。大いなる土木工事を起さねばならぬ。それを帝釈さまが草の枝一本をさして寺が建ちましたという。されば直ぐうけとれることは、堂塔伽藍を意味しているのではないと云うことである。他の表現をかりると、一茎草を拈じて丈六の全身と為すと云うことである。一ひらの菜の葉で、すばらしい仏様をつくると云うのである。このような表現を通して思われることは、些細なことの中にすばらしい価値が含まれているということであり、禅門に於ける仏という意味あいもほぼ見当がつくことである。

仏様という時に私共は色々のすがたを想うことである。壇上にあって種々の供物、花お香を供えられてあるすがた、お釈迦様のすがた、不動尊のすがた、毘沙門さま愛染さま等々、世の諸仏、諸菩薩、諸天善神の方々、などを思うことである。夫々に尊いお徳をそなえておられる。又仏の教え、天地の道理を述べられたものを法と云う、そしてその法に順って行を立てて行く私共を僧と云う、僧と云うのは、所謂僧侶だけではなくて、法に随順するものはすべてである。禅門に於ては、僧の中に、私共の生きて行く中に仏のおもかげを見、法のすがたを見る。

道元禅師は、人は生れながら仏だと云う教えがほんとうならば、何故修行がいるのだろうかと云う疑問を修行の根底に置かれた方である。おさとりの後で、この解決が明確に示されているというのではないが、全体を通じてうけとれることは、本来清浄ということは無限に清浄にして行くすがたの中にあるといわれる。「かみをそり又かみをそる。」一度髪をそって安心していてはならないのである。無限に清浄にして行く行の中に仏様の御命が生きて行くというのである。そういう行の中に仏を見ようというのである。されば雑巾がけをしている仏様、庭掃除をしている仏様、人とお話しをしている仏様、どのこともどのことも仏様の清浄行になることをねがうである。「一茎草を拈じて丈六の全身と為す」と云うことは、そういうことなのである。お料理をする時、菜っ葉一枚の生命を尊ぶのである。

(昭和53年1月)従容録提唱より抜粋

(余語翠巖好夢集「去来のまま」より)