信仰について 余語 翠巖 

昔の川柳に「貸家(かしいえ)と唐様(からよう)に書く三代目」と云うのがある。蛇足の解説を加えて見よう。初代は無一物から、身体一つで鋭々努力して産をなした人である。その身代を継いで二代目は実直に事業を守って行く。三代目は祖父たる初代の苦労を知らず、親が世間によくあるように、子供にだけはこんな苦労はさせまいなどと、間違った愛情から、ちやほやされて育てられ学校の教育などは十分にうけて育ったものの、事業を守る才覚などもち合さず、親の死後、産を失って折角ゆずりうけた家屋敷も手放して、閉した表戸に「貸家」札が張ってある様子を云ったものである。しかも貸家と書いてある、その文字がまさに達筆なのである。唐様に書いてあると云うのである。

このようなことは、私共の周辺によく見聞ずることである。最もこの頃は、貸屋札など見られなくなっていることではあるが、――こう云うすがたを見るにつけ、私共の素朴な願いが思われる。凡てが順調に運んで行くことが果してよいのかと思われる。私共の一般的な願いとしては、心願成就、息災延命を思うことであるが、果してそれだけでよいことなのか。川柳にうたわれてあるように、苦辛の初代と安楽の三代目と何れがよいと思うのであろうか。

私は自分の幼少の頃をふり返って見る。三河の山寺で生まれた私は、五歳のとき父を失った。後住が来て、母は寺を去るように、私は寺の小僧になるようにとの事であったが、母としてはその申し出をきくわけに行かず、私を連れて寺を出ることとなり、三里程離れた縁故へ一度落ち着くこととなった。その時餞別をもらったと後から聞かされた。それは現金ではなく証文である。金弐拾五円なり餞別としてやるが現金は今は渡さないから、大きくなって入用のときに取りに来るようにと云うことである。無一物で寺を出てから流離の幾年か経って、四日市でその頃景気のよかった紡績工場で母は働くこととなった。朝早く貸間の家を母と共に出る。学校へ行ってもまだ門の閉っている頃であった。その頃の哀歓交々の生活は外からはあまりよい生活ではなかったと思うものの、それはそれなりに自分を育ててくれたことと思われる。

お互に自分達の願いの中味を吟味して見ると、わがままなことが多いものである。ある基教信者の述懐をきいたことがある。その人は関東大震災にあって、非常な苦しみを味わった時に、何故こんな苦しみにあわねばならぬのかと神をうらみに思うたけれども、よくよく考えて見れば、幸不幸、善悪は凡夫心のこちら側で判断することでばなく、神の思し召しにまかすことであったと気づいて、目からうろこが落ちたように信心のすがたが定まったと云うのである。

お互いの考えは夫々違っている、寸法がちがっている。山の人と海の人が宿に泊って話をした。山の人はお日様は山から出て山へ入るという。海の人はお日様は海から出て海へ入ると云う。宿の番頭さんが仲裁して、お日様は屋根から出て屋根へ入ると云うたと云う一口話がある。笑われぬ話である。

至極の立場から考えて見ると、苦辛の初代も安楽の三代目も夫々に業縁のすがたであり、どちらを是としどちらを非とすることはない、されば御信心のすがた、信仰のすがたは、順縁の時も逆縁の時も、自分の凡夫判断、世間そろばんにて、是非をきめることでなくお任せすることである。順逆共に大慈悲心のおん催しとうけとめることである。その時、大安心の境に坐することができよう。御安心の極である。個人の力量など浮雲のごときことである。

(昭和五十四年一月)(余語翠巖好夢集「去来のまま」より)