閑(五) 余語 翠厳

これは禅門の一つの問答ですがね。洞山(とうざん)と雪峰(せっぽう)の唐代の頃の禅匠ですがねー雪峰という和尚が、その、柴をかついで洞山和尚の前に置いた。洞山曰くね、その柴はどれ位重いのかという。で、その雪峰答えて曰く、これは「尽大地(じんだいち)」と書いてあるから「世界中の人が来ても持てません」そういう返事をした。洞山が「そんな重いものをよく持ってきたもんじゃな」と、雪峰答え無しと書いてある。そういう簡単な問答ですよ。それこそコンニャク問答じゃ。よくわからんだろうが、柴を運ぶということはね、昔の用語と云いますか、その、常識的な意味は「搬柴運水(はんさいうんすい)」と言って柴を搬い水を運ぶ日常の生活の事をいう訳です。問いですよ、お互い生きているこのすがた、重みどれ位あるのか。どれ位の意味合いあるのか。それは世界中の人がきても持てません。それをはかるはかりは無いわけ。それを人間は軽々(けいけい)にそれをはかるわけ。めかたをはかるわけ。ここにあるすがたというものは絶対の無限の活動体があるだけでしょうこれ。あとは全部ね、いろんなものの束縛かそういうものいっぱいだけのもの。本源にいったら無限の活動対がある。じゃからそれを、そんなものをはかるね、目盛りはないわけだ。

あの、アメリカで面白い法律があるそうですがね。胎児に異常があるとわかるんじゃそうですな。あの、生まれる前に。身体障害に異常性がわかる。そうするとわかった医者はその母親にそれを通告せにゃあならん。言わないままに生まれて来た場合にはそのお医者さんを告訴できると書いてあった。妙な法律があるもんじゃと思って読んだけどもね。しかし、よく考えてみますとね。障害をもっても生まれて来たほうがいいのか、障害をもった者なら生まれないほうがいいのか、そんなもの誰もはかれませんでしょ。絶対のすがただ、そういうもんは。無限の活動体として一個の活動体が生まれてきておる。それを本当の自由のすがたというものがわかってこんというと人問のすがたがわからんけども。そんなものはかるはかりはないといって、その時になぜそんな重いものをお前ようそこへ持ってきたなという質問はね、そこに一個の存在があるわけ。現にそこにおるわけじゃから。どこからどこヘきたもんじゃろう、どうしてそこへきたかという事じゃけど、これもわからん。わからんままにここに現にこうして存在しておってそれを組織づくっておるもんは既成概念が非常に多い。既成概念で全部できる。だからそれを「無対(むたい)」、「雪峰答え無し」と書いてあるが、答えようがないんだ、これはもう。問答に負けた、という訳じゃないんだ。答えようのない姿が答え無しと書いてある。