やがて冬山のシーズンが来る。若い人達が危険を犯して山登りをすることについていろいろの批判もある。何故そんなにしてまで山登りをするのかという問についての答は、人によっても異るであろう。私はそういう幾種かの答の中に「そこに山があるから登るのだ」という端的な表現をすばらしいと思う。山に生きる人々の清らかさの卒直なすがたであろう。

平生の私達は日常の行動に於て何かのためにやっている。一つ一つの行動には何かの目あてがあるけれども、最後に「それでは結局何のためか」と問う時に、人々は確乎とした答弁ができぬ時が多い。「そこに山があるから登るのだ」という答をいいかえて「ここに人生があるから生きて行くのだ」として見る。何か妙な詭弁のように聞えるが、私はそう考えてよいと思う。生きて行くことが最後には目あてのないことだというのは、一歩誤ると救いなき虚無主義になるけれども、そういうことでなくて、生きて行くこの生涯を手段として、その向うに何か実現すべき目あては定かではないということである。それよりもこの生涯そのまま目標自身であり、人生は手段でなくて目標であるということである。今日は明日の準備ではない、今年は来るべき年の準備ではないという意味がなければならぬ。目あてが実現しなければ準備に費された年月も無意味になる。そういうことではなくて、一つ一つが目あて自身の意味を内に蔵していなければならない。有意義な人生ということがよくいわれるけれども、どちらかといえば皮相な立場でもある。有意義ではない人生などあり得ぬ。朝から晩までの行為すべて、それが目的自身だという自覚がある時に、一挙手一投足皆目的であれぱ、さらにその外に実現すべきものはない。芸術家、実業家、政治家等々の目あては所詮は仮のものであろう。その底にいわゆる日々是好日ということがなければならない。この言葉は、人問の好悪の上の言葉ではない。一日一日が目的自身であることの表現である。今日一日いのちがあるから生きて行く、そして一刻一刻かけがえのない時をきざんで行く。その一歩一歩が絶対に接し、目的自身の意味をもって行く。病んでいても、不幸なことがあっても、やはり日々是好日である。

東京のある会杜の綱領のようなものを作るに際し、意見をきかれたことがある。その中に「遊ぴも仕事である」という表現を見て、面白い味だと思った。こういう最後の立場に立ってみれば、その上のいろいろの動きはそれぞれに楽な動きになるのでないか。

余語翠厳著「去来のまま」より