あたり前の不思議さ 余語翠巌

何もしなくてもものが聞こえてくることをありがたいと思いませんか。
普通のことだからありがたいなんて思わないですか。
私たちはそういう錯覚ばかりしているのです。
平明なところにこそ尊いものがあるのです。私たちは何もしなくても、こうしてちゃんと生きています、余計な心配をしなくても、ちゃんと生きています。こんな不思議なことはありません。ほっといてもちゃんと心臓は動いていてくれるし、鼻は呼吸してくれるし、そんな尊いもの、他にありはしません。よく神通力とか超能力とか余計なことを考えてしまいますが、平明なこと、それが仏性なのです。

坐禅をしている時には、何もしなくてもまわりの音が聞こえています。すべての音がちゃんと間違いなく入ってきます。そのくらい人間の体というものは公けのものなのです。自分の好きな音だけ聞いているというわけにはいきません。音楽でも聞こうという時には、「雑音がうるさい」なんて言う人がいるが、人間の体というものはそんなこととは違うのです。実に公にできています。

それを平明な姿と私は言うのです。あまりあたり前すぎて、あたり前の不思議さに気がつかないから、物欲しくなってくるのかな。そうして物欲しくなった時に、それを泥棒根性というのです。

『十重禁戒』という戒法の中に不倫盗戒というのがあります。泥棒するなというのでしょうが、そんなことはわざわざ戒法で教えなくても誰でも知っています。これは他人の物をとってくるという話とは違うのです。自分がそういう大安心の姿であるということに気がつかないから、もっとどこかに何かあるかしらと泥棒根性が出てくる、それをいましめているのです。殺生戒などその他の戒についてもみな同じことですが、一つもとの意味がわかれば、全部が守れるようになっているのです。戒法というのはそういう成り立ちになっているわけです。

一番の根源は宗教的大安心、それっきりです。一番平明な姿に大安心ができるのです。それがわからないから、流浪の旅に出なければならないのです。それが生死流転だというわけです。まあ、わかるまで苦労しなさいということです。

わかってしまえば何もない、わかったら元の通りだと書いてあります。元の通りなら、はじめから何もしない方がましだけれども、しかし迷いだしたら迷いあぐねて、元に帰るしか仕方がないのです。

修行などということは、精神を病んだ人のための処方箋みたいなものです。平明の中にちゃんと安心がある。宗教の大安心とはそういうものです。平明に生きていく時には、ちやんと調うたままに生きていかなければなりません。

毎日を平明におれたら、それは大したものです。万里一条鉄の平明が保てたら、それで極楽というものです。

余語翠巌著「自己をならうというは」地湧社(1987年)より