春もすでに逝かんとして、新緑薫風の時節である。春風はよく生々として万物を育てる。春風は、高下なく、わけへだてなく、吹き亘る。高きによく吹き、低きによく吹かぬということはない。まことに差別なきすがたである。その中で咲きでる花は、高くて長い枝、低くて短い枝それぞれに精一杯咲いている。地の上に、何やらゆかしと詠まれたすがたそのままに咲くすみれ花、清らかに高く咲く白木蓮のたたずまい、それぞれである。人はそのさまざまのすがたの中で、より好みをするのである。されど紫がよくて、紅がよくない道理はない。人間だけの世界で通用するわがままである。長短各々で咲いている桜花は長短それぞれでよいわけである。そのままにて、平等の春風の中に大いなる調和の世界を現じている。

仏様の御力を、光として表される。光被と云い、無碍光という。春風の如く、高低長短をわけへだてることなく、無碍の光である。世界のすみずみまで行き亘る光である。光の行き亘っていることに気がつくことが、御信心の間違いなき御利益である。心の窓が開けて、高低長短がそれぞれに光に照されてあることが見えてくるのである。白色白光、赤色赤光の光景である。玄沙禅師さまの、「尽十方界一穎明珠」という風光である。

そういう世界に気付くために、仏様と波長をあわせるために、至心に合掌して御信心をすることである。スィッチを入れなくてはならない。

(昭和五十四年五月)
翠風だより 第2号より抜粋