千両の実が色づいて秋の日に美しい。もう初冬の目射しである。時折そこへ小鳥が実をついばみに来る。そんな様子を眺めていると時の経つのを忘れている。そういう時にかっての行脚のすがたをふっと思い出すことがある。

網代笠に袈裟行季をつけた雲水の漂々としたすがたを思う。そしてそれは一所不住の徒と呼ばれ、雲水といわれる。そして文字通り、雲の動いてやまないように、又水の流れて止まらないように漂々と動いて行く。一所に定住しない。.そういうようなすがたの中に、私は生きて行く上の最上の心構えをいつも思う。

人間はいつも縦横限りなき人間関係の中にしばられて生きている。平安に、幸福に暮している時でさへも、時折只一人どこかへ行ってしまいたいような感情におそわれることもあるものだ。いろいろなことから解き放たれて無心に遊ぶことの楽しさ、それが旅のたのしさである。されど生涯を旅にすごすというようなことは許されないのが一般である。いろいろのことにしばられながら、しかも漂々としたものに一種の郷愁をいだいてすごして行く。雲水の一所不住ということ、それは一つのことに妄執をもたないことであろうか。何ものにも妄執をもたぬということは表面的に考えると、ある意味では逃避であるかも知れない。又無責任な生き方であるようにも思われるであろう。されど一所不住ということをもう少し深く見つめると、それはあらゆる場所に住むことである。自分の生活する一つ一つの場所に全身心を投入して生きることであり、而も妄執をもたない心境である。

どのようなことにも全’身心を投入する心構えをもたないから、いつも逃げ腰になる。結婚生活のこわれそうになった話の相談をよくもちこまれる。あまり面白くもない割の悪いことであるが業縁とあきらめて話に応じてはいるが、そこで見出されることは全身心の投入という気構えのないことである。男でも女でも、一所不住の徒としてわたり歩くすがたの中にはいつも悲劇を含んでいる。そういうすがたはお互に周囲を見ればよく見出すことができる。一所不住と-いうことはその時その場に全身心を投入客して生きることである。

漂々として流れ行く雲水のすがたを逃避と見る傾向、世のわずらわしさを去って隠者となること、それが出家だという考え方は目本の仏教に対する一般の傾向であるが、それは生きる力を与える宗教とはならない。人は一刻一刻、一所不住である。一所不住なるが故に一所に渾身心の力をこめて生きるのである。利害得失はその後にくる景品であり、生活のかすである。すでに日かげりて千両のあたりは暗い。山茶花の花のうすく白きが浮いて見ゆ。

余語翠巌著「去来のまま」 より