三、四年前に大阪府下の修徳学園を訪れる。「見かえりの塔」として世の人々に親しいひびきをもつ施設である。梅雨に煙る日、塔のきざはしを、名も無き雑草のみだれ咲くを殊の外の思いで見ながら登る。そこここにたむろして建てられた園児の家々に、連絡の版木の金属的音がひびいて禅寺の如き感をただよわせる。とは云え建物は近代的な明るい色である。

玄関に立って壁間にかかげられた月訓を見る。「世の中にはもっと不幸な人がいる。」こういう月訓をもってその充たされぬ心を落ちつかせようとする努カ、その裏につみ重なっている不幸の重さを泌々と思う。日々の生活のありさまを先生方より聞く。今まで流離の世界にあって、「すり」常習の子供が「先生、すりってこうしてするんだよ」と云って、その秘技?を教えてくれる無邪気な瞳、自分の家庭担任の先生に食べさせようと思って日の暮れるまで川辺で魚をとっていて帰ることを忘れている子供、時折たづねて来る母親のある子供を見る羨望の眼等々。今だに忘れかねている。一つ一つ胸にひびく思いで聞く。その一つ一つが自分の幼き頃の思いを具象化したようなすがたであるためでもあろう。数年を経た今日でも印象尚鮮かである。

そうして「もっと不幸な人がいる」という月訓を思う。俗諺でいう「下を見ればきりがない」という意味なのでもあろう。そうした比較ということの上に現況に感謝を見つけ出そうと云うことであろうか。あの特殊な環境に於て感情のおちつきには大変大事なことであろうと思われる。されど一般生活に於て現状満足で事は仲々おさまらないようである。限りなき前進の物質文明、そしてある意味の幸福は金銭で買えることであるから、その追求は限りがないことであろう。「くらべて」見る立場であればそれはいつも不安定なものであろう。優越感と劣等惑の中に漂うて過すことであろう。「私達よりもっと不幸な人がいる」と共に「私達よりもっと幸福な人がいる」ことになる。それは精神的な意味に於ても物質的な意味に於ても。くらべられた立場はここから脱することはできない。されど一応教訓的な意味でそれは大切である。

くらべない立場、相対的でない立場に立つことが至極の心境だと思われる。むつかしく云えば絶対の立場とでも云うべきか。そういうことから宗教的心境に連る。自分の境遇、自分の職業、自分の周囲に対する自分の努カが一つの使命感を帯びて自分を動かして行く。それは比較の世界ではない。そういう所まで行きつかねばまことのしあわせはない。されど現状に於てくらべることは悲しい現実である。そこから、そこはかとなき哀歓も生まれてくる。人間とはまことに厄介な存在ではある。

(余語翠厳著「去来のまま」より)