「観音経」の中に、観世音菩薩は 如何ようにこの娑婆世界に遊びたもうや、とあるところは、どのように拝するのであろうか。私は仏教が中国に入って独特の受け取り方をされているように思われる。されば原典研究などということは大切であるけれども、それを受け取る国民、さらには個々人の中にあって独特の信仰となるものである。日本の各宗祖師の教えに接するとよく分かる。「遊ぶ」という語感から私の受け取り方は凡てのことは、それ自身が目あてということである。遊びには、それを手段として何かにしようというようなことはない。人間のやることは、大凡のことを手段視しがちである。されど遊びにはそれがない。そして、それが構えた姿勢でなく、ゆったりと自然の姿で行じられて行くことであろう。

「般若心経」にはいろいろの読み方があるのであろうが、無眼耳鼻舌身意というのは、眼耳鼻舌身意無しと読むのが本当なのだろうが、私は、無の眼耳鼻舌身意ありと拝読する。「無」という字は、般若心経の字源ではあるが、他の箇所も同じように読む。「無」というのは、東洋思想の中心のようにいわれて来ているが、一言でいえば、無限者それ自身なのであろうか。凡てのものがその中においてあるものであろうか。

人間が神の国から追放されたという。またいつの頃からか無始の無明に覆われているという。洋の東西を問わず、無限者からの背理を思うている。されば原点に、魂の故郷へ帰ろうという思いが人を駆り立てる。その思いが憩いの場所を得るのはいつであろうか、また何処であろうか。

曹洞宗塋山禅師の「信心銘拈提」の中に「風息んで花尚落ち 鳥啼いて山更に幽なり」とある。静寂な山の中で鳥の啼く声は、その静けさを破るものではあるが、その啼く声の止んだ後は、その静けさが更に一段と深まることはまま経験することである。されば、鳥の啼く声は山の静けさの荘厳、かざりである。魂の故郷へ帰ることは、日常の、人の言に従えば汚濁に満ちたすがたを、消し去ろうと努力することでなく、間違いだとか汚れだとか思うことでなく、凡てが無限者のかざりであることに思いが到ることである。
昭和四十九年 (余語翠巌老師著 「去来のまま」より)