私は愛知県の奥の鳳来山という山の裏にあるお寺の生まれですが、五つのときに住職の父親に死なれました。ところが昔のことで、寺におられぬことになり、母親と一緒にあっさり放り出されてしまいました。母親は桑名藩の出で、武士の娘だというような顔をしているから、職業婦人向きではないのですが、大正八年ごろの景気のいい時でしたから、紡績工場で働いたりしていました。しかし、慣れぬ労働のため体をいためてしまいました。
私は十歳でお寺の小僧にやらされ、それで師匠に育てられてきたというわけですが、よいも悪いもなく、そのときが全境涯なのでした。父親が死ななかったら、生まれたときのお寺にずっといたのでしょう。そのほうがいいのか、今がいいのか、そんなこと考えたってしかたがない。その時その時が全境涯なのです。誰でも三つの時、五つの時、十の時、二十の時というように人生の境涯がありますが、その時その時はつまるとかつまらぬとかいう評価の外にあるわけです。評価をするのは凡夫のはからい心で、そのはからい心のためにいろんな努力もあるわけでしょう。けれども、努力でできる世界とできぬ世界とがある。そういうこととは全然次元の違う世界というものがあるのです。

坐禅でも、それでもって何かを得ようとする手段として考えられている場合もあるでしょう。けれども、そういうことは思わないのが坐禅です。人問の完成とか未完成とか、そんなことを言うのは坐禅ということを深く考えておらぬ人の言うことだと思います。人問の完成などというのは、まるで蒸留水みたいな人間を考えているのではないのか。そんなふうに考えられたら、佛の教えも何もないことになってしまう。坐禅を手段としてやると、いろいろの功徳があるという事実は疑いない。腹式呼吸を覚えると健康になるということは確かにある。そういうことは端的にわかるのですが、そのことを通して、もっと深い意味あいのところに達するには、ひたすら坐禅に自らを投げ入れるしかないのです。人間の尺度なんかは忘れて、未完のままの全人格を投げ入れるというのは、阿弥陀様も一緒ということなのです。なぜなら、すべてをお任せするのだからです。全部お任せができるということが信仰の至極の場所になるのです。どうなされても結構ですよと南無帰依佛になることです。お任せしたのだから、何にも言うところはない。

そういう思いになってくると、瑣末なこと、つまらぬことも、ことごとく意義のある人生になってくるのではないでしょうか。それなら、くよくよとこだわることはない。しかし、やっぱりいろんな苦労をせにゃわからぬ。

そこでまためんどうな話になるわけですが、何もかも佛の恵みと受けとる心が湧いてきさえすれば、小言の対象もなくなってしまうはずです。一日の生活を考えてみても、朝起きて御飯を食べ、お掃除して、洗濯をし、いろいろの仕事をする、どの時間が一番尊いであろうか。会杜へ行くのは月給をもらうのだから、その時問中が一番大事に違いないけれども、家で掃除をしたり洗濯をしたりするのはあまり大事ではないのか。女の人の中にはそういうことはつまらぬ無駄だから合理的にすますようにしているという人もいる。合理的はいいけれども、つまらぬことをしているわけではなく、それもまた大事なことなのです。実はどれもこれも一大事なのであつて、問題はそういう考え方ができるかできないかなのです。

別にそこら辺に一大事が転がっているわけではないが、一大事を見つけること、そしてそれをおろそかにしないということでしょう。

快適にして、人生をすばらしいものにしたいというのはだいたい煩悩の妄想です、ひょっとしてそういうことも、あるかもしれませんが、そのこと自体はいっときの感激で、続くものではない。また人生はラッキョウのようなものだと言うた人がいます。むいてもむいても皮ばかりで芯も何もありはしないというのです。あれば皮ごと全部が実で、それと同じように、人問の毎日毎日が、実は全部一生涯になるのです。

それなら、何のための一生涯であるのか。極楽へ行くための準備をしているのだと言う人がいるかもしれない。しかし極楽も本当にあるのかないのか。確かにあるという受けとり方をしておられる人もいるが、そこへ行ったらどうするのか。「華厳経」を見ると、天の世界のずいぶん立派なことが書いてあります。六欲天の一番上は他化自在天というところで、そこへ行くと、人間の世界の干六百年が一日に当たるという。いかに長生きしたいからといってそこに十年もおれば大変なことになるでしよう。退屈せぬかなと思うのですが、暑い国インドの人の考えでは、ヒマラヤの高い山の上に涼しげな安心の天があるというような空想が旅に出る話になる。それが普通の人たちの中にも佛に通ずる道があるというような説話になる。

生まれてくる前から意義ある人生を送ろうなんて考えてきた者はおりはせぬ。生まれてから後のことですが、佛に通ずる道とか何とかという思いでなく、誰にも任せきる姿というものがあるはずだと思うのです。ということは、意義ある人生というものを、もっと足元に持ってくるのです。

一大事を見つけること自体も、足元に持ってくるなら、そこに絶対の肯定の世界、阿弥陀様から見た世界があることになるのでしょう。そういう佛の世界の風光がわかってくると、もっと楽に生きていけるようになる。なぜなら、人問の尺度を離れた世界、絶対平等の世界は安楽だからです。

考えてみると、お互いの毎日毎日の歩みが全部一大事と言えるのではないでしょうか。本の中にでもあるかと思って、読んで探したってありはしない。だから一大事というのは探してくるものではなく、人生の、こま一こま一こまを一大事と見ることなのです。

「鳥啼いて山更に幽なり」という句があります。静かな山の中で鳥が啼くと、その時だけは山の静けさが破れるけれども、鳥が啼きやんだ後の山の静寂さは、かえって一層深まるものです。つまり、鳥が啼くのは山の静けさを深める道具立てになっているのです。それと同じことで、日常茶飯の一切のことが真実のものをかざり立てる道具立てになっているわけで、それが一大事にほかならないのです。

一日じゅう笑いも泣きもせずに知らぬ顔でいたら、誰も寄りついてくれぬ。笑うも泣くもみな人生のかざり立てになっているのです。それが佛の天地の風光に照らされた天真欄漫の姿であるならば、まことにさわやかな姿でありましょう。

昭和六十年九月十四日「在家佛教協会講演会」於大手町ビル.東京会場)