眼處聞聲  余語翠巖

そこはかとなく肌で感ずる新涼の季節、自然の風光のうつろいの徴妙なすがたである。
天地の調和――それは創成もあり破壊もある天地のリズム、その全き荘巌に包まれる時、その表詮は人間の言説を拒否する。
それは音を以て表詮すれば音楽となるものである。
光を以て表詮すれば絵画となるものである。
されど混然一体のとき只如是と云うべきことである。

古語に、眼處聞聲と云うことは、このすがたを云うのである。
眼で声が聞えるわけではない。
或はそう云うことの可能性を求めて修行している者もあるのかも知れぬ。
たわけたことだ。
人は特殊技能を求めることはいらない。
もっと平明なものである。

大智さまは頌して云く、「青天白日人を誤ること多し」と、あまり平明なものは尊く思わないものである。その平明さの中に萬人は救われてある。

(「大雄」一九八六年錦繍号より)