閑(六) 余語 翠厳老師

それはやっぱり天地のいのちというようなものの中の一人一人の受けとりかた、自分はこのように受けとっておるんだ、そういうことです。そういうのが今、仏教で云っている不殺生戒、さっき云いかけましたけど、不殺生戒というのはそういうことを不殺生戒というのですね。自分がほとけのいのちを守りそれを殺さないようにしようということは、自分が悠々として授ったままに生きていけるというすがたがわかった時に、不殺生戒が保てるというわけ。まああの今でもね、仏教会の人達もそういう考え方は少ないようですがね。

やっぱりもののいのちをとるな、こういうように受けとっておる人が多いですが、しかしよく考えますとね、昔はその坊さんは魚や肉は食べん、それから法事の時は精進料理、だいたい決まっておったんですがね。この頃精進料理なんかやってますか、めったにやらんでしょうがねえ。あの生きものを殺すことが悪いということになってくると、人間食べものありませんぞ、そりゃあ。

にんじんも大根も生きとるんだから、あれ。それからそのねあの、このおい出とった、鹿児島かどこかの者が酢を作ってました米酢ちゅうのをね。そうするとその人達曰くお米のこうじがず―つとこう変化してお酢ができる。ちゃんと生きておるんじゃと云っておりましたがね、そういう狭い意味の不殺生戒なんていうことは守れませんわ。守らにゃだめと云ったらとても守れんわ。

だから戒(かい)という字は戒(いましめ)という字だけども本当は天地の生きておる真実のすがただという。みなそういうことですね。一言で云えば「閑」ということは、なんて云いますかなあ、天地のいのちをあるがままに受取っていける時に閑の閑と云う字の意味合がでてくる訳でしょうね。だから最初に申しました、この、より好みするなということは、お互いの対象になるものが、全部天地のすがたを、そこにそういうすがたでもっておるんじゃからそこに評価をつける余地がないわけ。全部平等だ。だからほかの言葉で云うと、食べることが教えを実践としているということなんだ、あれは、どれもこれも、じゃからこれ又分かり易いようなことばで云いますとね、つまみぐいするなという訳だ。これが好きで、これが嫌いでそりゃまあそうに違いない。人生でつまみぐいなんかしたってどれもこれも真実なんだから。極端に云えばさっき云ったようにね、どのような人生が意義があったかなかったかなんて寸法がないんでしょう。それがわかった時に、はじめて安楽になれる訳だ。

どのような宗教でもそういうふうになりますね。キリスト教でいきますと、旧教の方はですね、旧教でいうと「神は正しきものにくみしたもう」正しきものとは要するにあの、正、不正、義という字が書いてありますがね。昔、正しいものはかわいがるという訳だ。キリスト者になってみると「神全てのものに愛及ぼし給う」ということになるわけ。それと同じことですよ。

正しき者たってね、どう正しいのやらわからんでしょう。その時の徳目に従って正しいことがいいのかわるいのか。あの高知の播磨屋橋、話御存知かな、あそこへ行くとね。あの、「坊さんかんざし買うを見た」というあの唄のもとがあるでしょ。純信という和尚といかけ屋のなんとか云う娘が恋仲になった。純信という人がそのかんざし買うて、その播磨屋橋の上でわたしたというんじや。話が上手にできておるあれは。そんな人が通っておる時にわたす訳ないと思うけども。要するにそういう事で、要するに、ばれた訳だな、あの純信と娘の恋仲が。その結果、島流しにおうたちゅうんだ二人がね。そんな馬鹿げたことがあるかと云うんじゃけどもね。その時がそれは定めじゃからそうなっておる。純信という和尚の墓は今も香川県と愛媛の境にあるというあの辺の和尚が云うとった。女の墓はわからんて云つとったけどね。その時はそれが掟だから仕方なかろうと思うけどね。今はそんな事はちっとも通用せんでしょう。全然違うんじやから。その時はそういうことしちゃあいかんということになっておる。正しからざるもんという、今はそんなこと関係ないけど。その時に正しきものだけ与(く)みされたらどうなるや。道徳的に正しい者が絶対正しいと云えんじやから、本当の正しさが、というものがわかってこんと困る。

道徳というものは簡単にいうと閉鎖社会の絆みたいなものでしょこれ糾っておくね。閉じられた社会の絆というのが道徳というものでしょうだいたいは。一つのグループを縛っておく為にね、そういう申し合わせでしょ。そむく訳にいかん。そむいたらそこに入れてもらえんから。だけど本当の道理はそこにはないということだ。宗教は開かれた社会の絆、絆というのかなあ、掟というのか、そういうことが言えると思います。だからそれを目あてにしておりませんとね。さっき云うたように1000年か2000年の単位でものを見るとよ―く見えると思うんです。すぐにはそう実現しなくても。

まあ仏教徒としてまあ考えてみますとね。靖国神社の問題もね。怨心(おんしん)平等だと云うことだ、仏教では。味方も敵も平等らしいんだ。そういう立場になったら世界中の英霊をあそこへ祀ったらそんでよさそうに思うんだが、わしはそう思うんじゃがな。あそこに毎年総理大臣が参ったらあかんてあんなこといつまでたっても同じことでしょうが。勢力関係が違えば又文句云わんならんかしらんけど。要するにそういう民族意識だけが強い時は本当のものでないわけ。日本は狭くなったようですな。そういうことは。昔は旅順戦争が終わった時に日本人が向うの兵隊、ロシアの兵隊の慰霊塔を先に建ててやったという話がある、とそれから日本人の一つにしてしまえばいいのに、そうもできなんだかな。あとから建てた。そういう思いやりが全然ありませんね。今は本当にそういうギクシヤクしてる。それからまあそうでしょうねあんた方もご存知だと思うが、ベルリンヘ行くと東ベルリンだかなあ、ソビエトの戦勝記念塔という大きなものが建っとるでしょう。人のところへ来て戦勝記念塔もないもんじゃろうと思うじゃろうと思うけども。そういう時代だからとってもその敵味方一緒に祀るなんちゅうことはできそうもありませんけども。考えてみるとそういうことでありましょうが。みんな同じじゃと云うとる。そういうこというたってできそうもないからだめじゃけれども。大きなもっと広い広く広く見れば、道理がわかってくるんじゃないかと思うんですね。

そんなようなことでねえ、この仏教で申しまする閑という世界はいつもかもどのような相であっても、それがそのすがたのままで過不足なくできておるということ、過不足なき存在なんだ。お互い様、ここにあるということが。ちなみにいっておきますと戒法の中にね、嘘をつくなということがある。嘘をつくな、なんていうことをね。なにも宗教の世界でガタガタいうこといらんのじゃけれどわかっておるんだ。みんな嘘をついてはいかんということはね。わかっておってもそういうことを言う。嘘をついてはいかんということは嘘をつけんようにできておるんだお互いに。過不足なくここにこのように生まれて、人間自体よく出来ていますね。これいい加減になったら、ちゃんと寸法止まるしさ、ね、具合ようできておるんじゃけど。そういう天地のすがたが過不足なくできておることに気がつくことが嘘をつけんということだ。年がよれば頭がはげてくる。あたりまえの話だ。そういうふうに事実が天地の姿を語りぬいておるわけ。嘘を云わんようにね。嘘がつけんようになっておる。そういうのが不妄語戒ということじゃと。要するにここにおる、このように生まれてきた存在が過不足なし、余ることなく欠くることなくここにあるんじゃということが胸うちがすれば全部一つでことが足りるわけ。不殺生戒、さっき不殺生戒の話をしましたが不殺生戒も不妄語戒もみな同じことだ。

一つがわかれば全部わかるようにできとるというのはそのたてまえですね。百草頭上無辺の春ということだ。その紫の花、白い花、赤い花の上に天地の春が現じておる。天地のいのちがそのような形においてそこにある、という。過不足なくある。お互いの存在自体に過不足だらけじゃと思うとるかしらんが、過不足なき存在が本来の人間のいのちじゃとあとの技術的なことは別じゃな。ものがわかるとかね、わからんとかね、そんなことは第二義、第三義の問題。

だから一番の、文化の根源はそこにあるはずだ。あのそれまあ、普通いろんなことがあって、競争社会、あんまり変なこと云っておこられるけど百メートル何秒で走ってもたいしたことないと思うじゃけど、わしら。もっとみんなね、その人はそれでいいんじゃろう。ほかの者はどうするじゃ。もっとそういう能、不能にかかわらず安心した生活ができるのが一番もとのすがたじゃろう。字が上手じゃったら、絵が上手じゃないやったら、そんなこと関係ないことです。文化国家なんてそんなもんが栄んになることじゃないはずだと思う本当はね。みんなその可能性をもったすがたが安心して生きていけるようになればいい。あの―誰でしたかなあ、音楽の先生が音楽は大変結構だとね、ソプラノもいいしすばらしい。管弦楽もいいんじゃけども。みんなが持っておるのが一番大事じゃというんだという考え方ね。そういう先生がね、あの、「かごめ、かごめ」の歌、いうとった。それなら誰でも唄える、たいていはね「か―ごめ かごめ」あれは唄えるけどもね。みんなそういうの持っておるんじゃから。ちゃんとそういうの気づかしたらそんなとっぴもない、トップの方はそりゃああるには違いない、違いないけれどもみんなの中に遍満をしておるそういうすがたを会得する方が一番大事だと思う。

宗教的世界も同じことです。宗教的にそういえばそういうように、天地のすがたをこのように生きておる。なにも過不足ないんだから、過不足あると思っておるのは自分で勝手にそう思っとるだけだ。人間の寸法でそう思っておる。天地のすがたでは過不足なし、安心してそこにおったらいい。それがなかなかそのはからい心でなかなかできん訳だ。あいつがいて、おれもいこじなことになってね。本当のその安心が一番大事じゃと思う。あの、さっき話したように至道は無難、本当の道理、至極の道理というのは、別にそんなこんなんでなくてたった一つよりこのみをするなっていうそういうことだよという。これは禅の一番源頭(げんとう)に立っておる『信心銘』(しんじんめい)のことばですがね。一番のこのことが至難(しなん)ですよ人間にとっては。一番。至難なことを、難無しというから、いうだけ困るんだけれど。一番むつかしい問題だ。まあわかったような、わからんようなお話じゃったと思うけども、だいたいのお話をこれで終ります。

(完) 昭和63年11月8日  小田原市立小学校校長会の講話をそのまま再現。文責記者