史跡というもの

安芸の宮島への旅行から帰った人が、「ああいうものもだんだん滅びることでしょうね」という。同感したいと思うものの、そう云いきってしまえぬものにつきあたる。

観光地というもの、中に、卓絶した景観もあろうし、近代的施設もあろうし、著名な史跡というものもある。史跡を尋ねる人々はどういう意味をそこから汲みとるのであろうか。「滅びゆくものの美しさ」を見出すこともあろうし、幾星霜の間の変遷に感慨深きものもあるであろう。流れ行く時の中の起伏に、「人は同じ流れに再び足を洗うことのできぬ」思いに打たれるのでもあろう。その地に立って、わずかな礎石がその昔ありし文化を示すのをしのび漠然たる古戦場の風に修羅の声を聞く思いがする。低徊去りあたわぬ思いが何人の胸にも迫る。このような史跡が、観光の価値を留めているのは背後の歴史による。歴史への思いがない時、史跡はなんの意味も持たない。されど史跡が、更には歴史が回願の観点からだけ考えられているのは真の見方とは思えない。

歴史的事実として書き残されてあることは、時の流れの中で「一回だけ起きたこと」として残っている。個人の場合に於いても、日常茶飯事は歴史的とは云えぬ。朝起きて、顔を洗って、朝食をとることは、歴史的とはいえぬ。特別の、生涯に一回だけのことが歴史的なのだという。同じように、それぞれの社会に於いて、国に於いて、「一回起的」なことが、歴史的な事柄として残って行く。それはそうなのであろう。けれ共考えて見れば、一回だけしか起らぬことを誌して後世に残すというのは、単なる歴史的知識としてであってもそれが一体何になるというのであろうか。そういう知識は百科事典にでもまかせてけばよい。

私はいつも、歴史は私達を生かすー或いは私達がその上に生きているー環境又は根底ともいうべきものと思う。休火山や活火山を連ねるとそこに横たわっている火山帯の方向がわかるように、又ある一定の条件の点を結ぶと一つの軌跡ができるように、歴史事実の示すものは、そういうものと思われる。中を流れていくものが個々の現れから中を流れていくものをつかみとることが歴史を学ぶ大きな意味と思われる。

史跡名勝は滅びゆくものであり又滅びざるものである。形造られたものはいつの日か滅びるであろう。されと形造る力は滅びることはない。歴史に於いては「ない」ものが「ある」ものを現す。史跡への訪れは、このような意味をもつものと思われる。漫然と行くならば、もっとよい処があろう。