禅の道

禅の道 藤田彦三郎
仏法を行ずるに品を選ぶべきにあらず|禅の道 藤田彦三郎|翠風だより 第171号 昭和48年(1973)5月発行

仏法を行ずるに品を選ぶべきにあらず|禅の道 藤田彦三郎 手足あり。合唱行歩にかけたる事あるべからず。仏法を行ずるに品を選ぶべきにあらず。人界の生は皆是れ器量なり。余の畜生等の性にては叶ふべからず。学道の人はただ明日を期す […]

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禅の道 藤田彦三郎
末世について 禅の道 藤田彦三郎|翠風だより第37号 昭和46年(1971)7月発行

禅の道 藤田彦三郎 末世に就いて御説明致します。 末世とは末法の世と云ふ事で釈迦が入滅されてから数えて千年(或は五百年と云ふ人もあります)を正法の時代と云い 次の千年を像法の時代と云い その両時代を過ぎた後の一万年を末法 […]

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禅の道 藤田彦三郎
生きて居る只今の極楽が分かれば、死んでからの極楽も解決出来る|禅の道 藤田彦三| 翠風だより第37号 昭和46年(1971)7月発行

禅の道 藤田彦三 生きて居る只今の極楽が分かれば死んでからの極楽も解決出来るかと思はれます。逆に死の問題が解決されれば生きて居る問題も解決されるかと存じます。 お互い吾々は生きて居る間一生懸命働き親子、夫婦、兄弟等が一緒 […]

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御垂示 余語翠巖
古語に「河頭に水を売る」というのがある|濁り川のほとりできれいな水をうるということではない。河頭に水を売る 余語翠巌|翠風講ニュースレター第11号 平成17年(2005)9月発行 

河頭に水を売る 余語 翠巌 古語に「河頭に水を売る」というのがある。濁り川のほとりで、きれいな水を売るというようなことではない。水はきれいなものという時代のことである。誰もお金をつかって買うものはいない。無駄事である。余 […]

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御垂示 余語翠巖
春は枝頭にありて十分|御垂示 余語翠巌 ニュースレター第44号より

求道者(ぐどうしゃ)と言われる人が、最後はそんなことせんでもよかったんだなあということがよく分かると言ったという話がよくあります.馬鹿げた話だと思うが、ずうっとやってこなければ分からんというのだから、これまた始末が悪いの […]

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