道元禅師と政治権力 平井満夫

道元禅師と政治権力 平井 満夫
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今から800年ほど前、日本に達磨直伝の坐禅の仏法を伝えられた道元禅師。その著書と坐禅の教えは、今や日本のみならず世界中の心ある人々に受け継がれている。禅師の純粋の仏法が今日この様に伝わってきたのは、禅師が京都、鎌倉の政治権力とは毅然として距離を置き、北陸の山中永平寺にあって正法を伝えられたからだと云われている。嘗て私が読んだ道元禅入門書にはそういう意味のことが書かれていて、なんら疑問を持つこともなかった。

ところが、否、そうではない、禅師は中国留学からの帰国当初から政治権力に背を向けていたのではなかったと指摘する本に出会った。今回はこの話題を取り上げたいと思う。今更昔のそんなこと、どちらでもよいではないかと言われるかもしれないが、禅師がいかに政治権力と対峙されたかは興味あるテーマではないかと思う。宗教と政治権力との関係は、現代社会に於いても世界的に大きな問題であり続けている。

さて、くだんの本とは水野弥穂子(やおこ)著「道元禅師の人間像」(岩波書店1999年刊)である。著者は言うまでもなく道元研究の権威である。私がこの本を手に入れたのは全くの偶然で、実は昨年秋新橋駅前の広場で時々開かれる古本市でふと手に取って金800円也で買ったものである。

著者がこの本を書くにあたって渉猟された禅師に関する伝記資料は膨大なもので、しかも、その中からいわゆる古伝といわれる室町時代の三つの資料(永平寺三大尊行状記、伝光録、建撕(けんぜい)記)(伝光碌の著者は瑩山禅師、建撕は永平寺十四世で十五世紀の人)を比較することによって、真相に迫っている。禅師の置かれた時代背景にも目を配らせている。いわゆる公式な伝記には書かれていない裏事情にも触れていて道元禅師の人間像を浮かび上がらせている。

初版が平成七年(1995)の古本ではあるが、不勉強の私には、新鮮な発見が随分とあった。今回は道元禅師と政治権力という視点から、以下この本を台本にして禅師の帰国後の軌跡を概観してみることにする。

さて、順序としてはやはり道元禅師の中国留学時代から入らなければならない。禅師は24歳の貞応二年(122一223)大宋国に渡り、浙江の両岸に指導者をたずねても、心から師とすべき人物に出会うことは出来なかった。入宋して三年目、もはや日本に帰るほかはないと思った時、不思議なめぐりあわせで、天童山の住職如浄禅師に相見し、これこそ求めていた正師なりと、爾来あしかけ二年、「浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにおわりぬ」(弁道話)という修行を終えたのである。禅師二十八歳、 安貞元年(1227)のことである。

そこで如浄は道元禅師に「もうお前には伝えるべきものはすべて伝えた」として次の餞別の言葉を送ったとされる。禅師の伝記には二説あって、一説には「早く本国に帰り、祖道(菩薩達磨尊者の教え)を弘通(ぐずう)しなさい」とのみあるもの(行状記)。他の一説は、更に付け加えて「帰国の後は、国王大臣に近づかず、深山窮谷(しんざんきゅうこく)に住んで真の仏法を伝えなさい」と言われたとされる(伝光録、建撕記)。

水野氏の主張は、如浄の餞別の言葉は「祖道を弘通しなさい」だけであって、「国王大臣に近づかず、深山窮谷」云々は後世の伝記が付け足したというもの。その根拠は(一)弁道話、及び(二)道元禅師の十年におよぶ興聖寺での活動から見ても明らかだと言うのである。

確かに(1)については、帰国直後に禅師が書かれた弁道話で「曽礼(それ)、仏法を国中に弘通(ぐずう)すること、王勅をまつべしといえども・・・」と述べて当初の自分の理想が王勅を得て国家宗教として正法を弘通することにあったことを明らかにしている。次に(2)の十年におよぶ興聖寺での活動とはどんなものだったかを、以下に見て行くことにしよう。

京都に戻った道元禅師は、日本国に正伝の仏法を伝えるべく活動を始めたが、深草の地に道場を建てるのに六年という月日を要している。これは一つには資金集めだったであろう。禅師の持っていた荘園は入宋の費用のために処分されたであろうから、殆ど無一文から始めなくてはならず、勧進の苦労があったと思われる。しかし、もっと大きな問題は比叡山延暦寺からの圧迫であったらしい。禅師の目標は、朝廷の王勅を得て国家宗教として正法を弘通することにあって、その意図を秘するようなことはされなかったから、帰朝直後から何かにつけて比叡山の怒りをかっていたらしい。

しかし、ともかくも天福元年(1233)深草に興聖寺の建立が実現した。その後伽藍も徐々に拡充され、弟子も懐奘をはじめ多くの弟子が参入し仁治二年(1241)禅師42歳の頃には興聖僧堂は五十人を擁する大叢林となった(現在の興聖寺は深草ではなく宇治に江戸時代初期に建てられた)。但し、比叡山の圧迫は執拗に続いていたのである。

この間に禅師は王勅を得るべく朝廷に対して「護国正法義」を提出している。これは比叡山の逆鱗に触れ朝廷により却下されている。比叡山は、自らの拠り所とする天台宗のほかに、新しい信仰の起こることを極度に警戒していたのだ。

比叡山延暦寺というのは平安、鎌倉を通じて巨大な僧兵軍団を擁する治外法権国家のような観があった。白河天皇をして「加茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆かしめたのは有名な話である。山法師とは言うまでもなく比叡山の僧兵のことである。若干余談になるが、法然と親鸞が比叡山によって僧籍を剥奪され流罪となった有名な法難の事件も建永二年(1202)のことであるから、当時にすればそんなに昔の話しではなかった。下って室町時代にも有名な法難事件が起きている。当時、念仏宗の大谷本願寺はまだちっぽけな貧乏寺に過ぎなかったが、住職の蓮如の布教の成果で俄かに信者が増え始めていた。ところが、ある日突然比叡山の僧兵に襲われ、蓮如は命からがら親鸞の御像を抱いて近江に逃げのびた。これら僧兵の荒くれどもは乱暴略奪が嬉しくてたまらず、指に唾して攻め入ったという記録があるそうだ。比叡山の横暴狼藉は信長の焼き打ちに遭ってから、やっとなくなったのである。

禅師の京中追放が決まり、もしそれに反して洛中に入れば、比叡山は直ちに実力を行使できるという段階に来ても、禅師は尚、朝廷の有力者に説得を試みている。元関白の近衛兼経(かねつね)に会っているのである。しかし兼経のみならず宮廷の誰一人として、比叡山に対抗してまで道元正伝の仏法を擁護しようとはしなかった。

禅師に振りかかる法難は何時やって来るかも分からない。興聖寺に住すること十年余、ようやく禅寺として充実し始めた頃ではあったが、もはや一刻の猶予も許されない。そこで、興聖寺を捨てて急遽脱出が敢行されたのである。これには信徒の一人波多野義重の薦めがあったらしい。彼の所領である北越の山中へと、禅師一行が秘かに都を脱出したのは寛元元年(1243)夏のことだった。脱出が無事に行われたについては、波多野勢の警護に負うところ大であったであろう。

禅師一行が落ち着いた先は越前の山中、吉峰寺という無住の古寺で、ここで厳しい酷寒の冬を二度も耐えなければならなかった。このことをみても、脱出がいかに切羽詰まった行動だったかが理解できる。決して長年に亘って計画されたものではなかったのだ。越前に移ってから二年後、漸く大仏寺の建立が始まり、これが後に永平寺と改名され、ここに文字通り「国王大臣に近づかず、深山窮谷」に住することになった訳である。振り返ってみれば、興聖寺は道元禅師にとって出家者としてのロマンの高揚の時期でもあったし、また同時に苦闘の歴史でもあった。ここまで見てくれば、水野氏が指摘するように、禅師が帰国当初から政治権力に背を向けて「国王大臣に近づかず、深山窮谷」に隠居するつもりはなかったことは明らかであろう。

さて、一方の政治権力、鎌倉幕府に対する禅師の態度はどうだったのであろうか。やっと安住の地として永平寺に落ち着かれた頃、禅師に鎌倉下向の話が持ち上がる。時の執権は北条時頼であった。そもそも何故この話しが持ち上がったのであろうか。思うに関白家の出身で、独力で入宋を果し、仏法の正嫡となって帰国した道元禅師の名は北条家にも聞こえていたであろうから、おそらく波多野氏に、その道元なる人物を連れて来いという要請があったのであろう。波多野氏が鎌倉の御家人である以上(波多野氏は元々今の神奈川県秦野市の出)、こういう要請を断ることはできない。その立場を察して禅師として波多野氏の立場を悪くしないためだけに鎌倉に行かれたのであろう。宝治元年(1247)夏のことだった。

鎌倉では、禅師は時頼に仏祖正伝菩薩戒を授けている。北条氏から鎌倉に寺を開いてくれないかという要請があったが、それは丁寧にお断りして翌年春には早々に鎌倉を引き払って永平寺に帰還している。幕府権力に媚びることの無かった禅師の姿勢が専ら美談として後世に語られているが、元々禅師の理想はどこまでも「王勅」による叢林の建立であって、鎌倉の武士階級を相手にする気はさらさらなかったのだ。それどころか公家の頂点に生まれ育った禅師として武家の専制は我慢のならないものであった筈である。

心中では鎌倉の援助で大寺院の住職になることなど真っ平御免と思っていたであろうが、そんなことは億尾にもださず、「越前にささやかな寺がございまして、外護してくれる檀家もおりますので・・・」とだけ述べて逃げるように鎌倉から永平寺に帰ってしまった。鎌倉に建長寺が建立されたのは、その翌年建長元年(1249)である。

以上、水野氏の本に従って道元禅師の帰国後の軌跡を見てきた。総括すると、禅師は当初から政治権力に背を向けて北陸の山中に永平寺を創られたのではない。むしろ政治権力を利用して、国家宗教として正伝の仏法を国中に広めようとされたのである。しかもその政治権力とはあくまで京都の朝廷であって鎌倉の幕府ではなかった。しかしながら、この禅師の理想は比叡山の横槍によって断念せざるを得ず、やむなき選択としての永平寺だったのだ。

ところが興味深いことに、後世の弟子が書いた伝記では、伝光録でも建撕記でも、如浄の餞別の言葉に「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住んで」を付け加えて、いかにも永平寺が禅師の当初からの目的であり所定の行動であったような印象を与えるように書かれている。「結果的に永平寺でよかったのだ、興聖寺のことは思い出したくもない」という雰囲気が弟子達宗門全体にあったのかもしれないと水野氏は推測している。

インターネットで曹洞宗の教化センターの記述を見ると、道元禅師の興聖寺以降の生涯について次の様に書かれている。

「次第に名声も高まり、弟子の数も増えたのですが、僧団が大きくなるにつれて興聖寺への外圧が加わるようになります。また如浄禅師の『国王大臣に近づかず、深山幽谷にて仏の道を行じ、仏の弟子を育てなさい』との教えもあり、波多野義重のすすめで越前(福井県)の山中に移り、傘松峰大仏寺を建立されます。この寺はのちに、吉祥山永平寺と改称されました」

これが宗門の公式見解かと思われる。禅師の北越行がさりげない表現で書かれているが、真相はそんなに生易しいものではなかったことを水野氏はいみじくも指摘している。(曹洞宗という宗派名が用いられるようになったのは道元禅師入滅後約半世紀を経てからのこと)

歴史書をひもとくと、道元禅師が生きられた頃がいかに激動の時代だったかが分かる。禅師がお生まれになった正治二年(1200)は源平の争いから半世紀とたっていない。源頼朝が亡くなったのは、つい前年のことである。禅師の五十四年の生涯の間に日本の年号は実に二十一回も変わっている。

頼朝が創った鎌倉幕府は、実は日本歴史における大きな革命であった。単に政治の実権が京都から鎌倉に移っただけではない。経済体制が大転換して、京都の公家貴族が所有した荘園が、幕府の御家人である武士の手に移り、地方の財力は、京都の中央ではなく、地方に蓄財される時代になったのである。京都の公家貴族の中央集権から、武家社会による地方分権への移行である。

このような大転換期に直面している人間は、案外そうとは意識しないものである。道元禅師もそうであったかもしれない。出家されたとはいえ、関白藤原基房の孫である道元禅師は公家貴族のプリンスである。武家の新参者に何が出来るかくらいの意識ではなかったかと私は想像する。

宗教と政治権力との関係について考えてみるに、歴史上政治権力と結びついた宗教団体は殆ど必ず堕落している。日本浄土教研究の第一人者として知られた故石井瑞磨氏(元東海大学教授)の言を借りれば「宗教が政治にべったりくっついたとき、宗教は死んでしまう。宗教は独自の使命に生きなければならない」ということであろうか。禅師の時代、比叡山延暦寺がそのよい例であった。歴史上に「もし」は無いが、もし、禅師が王勅を得て、興聖寺が国家仏教の本山として発展したとしたら、どうなったであろうか。興聖寺に限っては比叡山延暦寺の二の舞いは演じなかったと誰が言えようか。

英明な道元禅師にその様な危惧の念が無かった筈はあるまいと思われる。特に禅師は十四歳から比叡山で修行され、その内情、退廃ぶりはつぶさに見ておられた筈である。それでも尚、王勅を理想とされたのは何故だろうか。仏法の正嫡という自負と使命感であろうか。禅師が朝廷に提出された「護国正法義」の中味が明らかになれば、禅師のお考えがもっと明確になっただろうが、水野氏も一言も触れていないところを見ると、どうやらこの史料は見当たらないようである。比叡山の圧力で朝廷内で握り潰されてしまったのかもしれない。表題から察するほかないが、「達磨直伝の道元禅こそが、戦乱や飢饉で荒れた民の心を救い、国家を正しい方向に導くことが出来る」という、正に「正法立国」の提言だったのであろう。

仏法を国の基本法にして、民を救い国を救おうという仏教立国のビジョンは、仏教伝来直後における聖徳太子の「以和為貴」の思想に通じるものと思う。日蓮が「立正安国論」を鎌倉幕府に献じていれられず、伊豆に配流され、更に佐渡へと流されたのは禅師の病没から数年後の事だった。当時の仏教指導者たちには、政教分離が常識になっている現代日本人の感覚では理解し難いほどの、熱いものがあったのであろう。

しかし、禅師の理想は現実に阻まれた。結果としての永平寺だった。不運にも病に侵されて永平寺での生活は数年しか続かず、道元禅師は建長五年(1253)五十四歳で京都でお亡くなりになられたが、おそらく晩年は永平寺でよかったと思っておられたのではなかろうか。確かに水野氏が喝破したように、禅師に対する師如浄の餞別の言葉には「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住んで」という文言は無かったかもしれないが、現実に南宋の都(杭州臨安)から遠く離れた天童山に住してその様に実践されていた師如浄の下で禅師は修行されたのだ。水野氏も、巻末に於いて「万一にも、『山僧の悵恨』もなく、朝廷や幕府の帰依があったとしても、結局は、北越の山中に逃れて、純粋の仏法を千年の後に伝えることを考えるほかない事態に立ち至ったことも考えられる。その意味で道元禅師の選択は正しかったのである」と結んでいる。やはり野におけ永平寺ということであろうか。

(平成28年7月)