禅の道 藤田彦三郎

まえがき 平井 満夫

今回から連載で、翠風講の創立者兼初代講元の藤田彦三郎氏が書かれた「禅の道」から抜粋して転載することに致します。この原本は前々号(ニュースレター第三十二号)編集後記で紹介しましたように、藤田氏が「禅の道」と題して、昭和45年10月の第二号から昭和48年7月の第185号まで約毎週一号のペースで自筆で書かれたものです。B4のガリ版刷り一枚で一号になっており、これを二つ折りにして綴じた部厚いファイルになっております。

藤田さんは長い間総持寺の日曜参禅会で副会長をしておられましたから、おそらく、会の同僚の方々に配布しておられたのではないかと思われます。前講元の金成彦一氏も同参禅会に参加しておられたので、ファイルにされたのでしょう。これを私は講元を引き受けた時に同氏から預かりました。私が持っているのはこのファイルのみですので、果してこれ以降も続きがあったかどうかは定かではありません。

「禅の道」は信仰心の篤い藤田さんのお人柄が溢れ出るような、且つ深い教養に裏打ちされた極めて密度の濃い内容ですが、なにせこれを活字に直すのは容易なことではなく、今まで放置しておりました。また、大部なのでとても全部をご紹介することは出来ませんが、たとえその一部でもニュースレターの読者に読んで頂くことは意義のあることだと思い、始めることと致しました。内容的には道元禅師の教えを紹介した部分が中心にあることは言うまでもありませんが、同時に藤田さんが深く帰依しておられた浄土真宗の開祖親鸞聖人の教えについても多くのページを割いておられるのが特徴です。

生前の藤田さんを御存じ無い方々のために、藤田さんの略歴を簡単に紹介致します。藤田さんは大正元年(1912)のお生まれです。余語翠巖老師より数か月先輩とのことでした。少年時代を北海道旭川で過ごされ、長じて東京の明治薬学専門学校(現在の明治薬科大学―通称明薬)を卒業された薬剤師さんです。若い頃旭川で造り酒屋を営まれましたが、寒冷地のため醸造業は思うように行かず、後年は神奈川県茅ケ崎に居を移され薬局を経営されました。引退後は御長男が経営する川越病院という産院の一隅に御夫婦で住んでおられました。

明薬時代は相撲部で活躍されたそうです。「私は体が小さかったから横綱のふんどし担ぎだった」と謙遜しておられましたが、短躯ながらがっしりとして骨太の、みるからに頑健な方でした。仏教への造詣は大変深く、学生時代から総持寺に参禅しておられたそうです。茅ケ崎に移られてからは、総持寺の日曜参禅会に通われ長く副会長を務められました。その間総持寺の後堂であられた余語翠巖老師に深く傾倒され、老師が大雄山最乗寺の山主になられてからは最乗寺に足繁く通われ、昭和58年には翠風講を創立され講元を勤められました。残念なことに、藤田さんは癌のため昭和62年6月にお亡くなりになられました。享年76歳。没後数年の間は勤子未亡人が講元を引き継いでおられました。

藤田さんは商人の道を歩まれたからでしょう、物腰は低く礼儀正しく、言葉使いは丁寧でした。常に謙虚で慈愛に溢れ、誰からも親しまれるお人柄でした。斯く言う私も常々「藤田大和尚」とお慕い申し上げておりました。「文は人なり」と言いますが、これからお読み頂く「禅の道」にもそのお人柄がよく表われていると思います。

まえがきはこれくらいにして、早速「禅の道」第二号の転載に入りますが、これが事実上の第一号にも拘わらず、トップページには当時の参禅会長菰田康一氏の辨道投石録第332号が来て、敢えて「第二号」とされているところにも藤田さんの謙虚なお人柄が偲ばれるようです。続いて第四号までを転載致します。漢字仮名使い、句読点などは出来る限り原文のまま転記しました。

禅の道  第二号     昭和45年10月10日  藤田 彦三郎

去月23日彼岸の中日に家内の妹が亡くなり月日の経つのは早いもので三回忌法要が札幌の親元で厳粛に相営まれ家内とお焼香に行ってきました。

それでこの三回忌法要をお彼岸に営まれました法縁を土台にしてこれからどれだけ続くか分かりませんが出来得る限り佛教即ち釈迦無尼佛のお教えを日本の曹洞宗(開祖道元禅師)を通じて若い世代の方々の為め「禅の道」を書いて行き度いと思います。皆様の御参考になれば誠に幸で御座いますと同時に私の修行の為め努力致し度いと思います故何卒よろしく御願い申し上げます。

佛教では現実の社会人生を生死の世界つまり泣いたり笑ったり喜んだり悲しんだりして居るこの世を此岸にたとえ佛の智慧すなわち徹底的に空にしてゆこうというその智慧の力をもって彼岸即ち向こう岸に度ろうという事を表した行事がお彼岸であります。それで彼岸とは申すまでもなく悟りの世界で又涅槃とも申します。

それですから死んでから彼岸の世界に行くのでなくて現在の迷い苦しんで居る私が悟りの喜悦の私に生まれかわろうと言うお教えが「摩訶般若波羅密多心経」でございます。このお経は佛教各宗で一番読経せられて居る事と存じます。

摩訶―― 大いなる或いは畢竟

般若―― 佛の智慧で私達が頭で考える智慧ではありません

波羅密多― 彼岸に至る

心経―― 心髄とか要と云う意味で心と云う意味ではありません。経は釈迦無尼佛が云われた御教

翻訳者―― 今から千三百余年以前に中国の玄奘三蔵法師に依る訳本が一番用いられて居ります。

禅の道  第三号    昭和45年11月10日   藤田 彦三郎

「50丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦畿(ほうき)千里を避て、かかる山陰(やまかげ)に跡をのこし給ふも、貴きゆえ有りとかや」

これは今から300年以前(元禄二年)に俳聖芭蕉が晩年の円熟した境地に達してから旅に出て書いた紀行文「奥の細道」の永平寺詣りの模様の処であります。これを現代語に訳しますと、

「50丁(5.5㎞位)ほど山に入って永平寺に参拝した。永平寺は道元禅師のお開きになった御寺である。都付近を避けてこんな遠い山中に寺をお残しになったのも貴い理由があってのことだと云うことである」

私も小学校二年生の時(今より50年程前)夏休みを利用し北海道旭川より兄弟三人妹一人で両親が福井出身なのでポッポ走る汽車で三日がかりで福井の叔父さんの処に遊びに行きました時叔父さんに連れられて炎天下汗をふきふき永平寺まで歩いて行った事を懐かしく思い出します。道は今の様に舗装されて居らずひどい道でした。

その時は何も分からずお詣りを致しましたが今から750年余り以前にあの越前の深い山の中に京の都を遠く離れて道元禅師がお寺を開創された事は大変な事であり何故その様な処に開かれたか疑問に思う処で御座います。

今は福井より電車又は舗装された立派な道路が出来て30分位で歩くことなく楽々と行かれます。昨年六月にお墓参りのため長男の運転する車で出来たばかりの東名高速道路を走り米原より北陸道を福井まで行って来ましたが約七時間で着きました。驚くばかりで御座います。

禅の道  第四号    昭和45年12月1日  藤田 彦三郎 

道元禅師がなぜ京都より遠い越前の深い山の中に永平寺を開かれたかをお話しする順序として生い立ちと出家、求道の事に付いて記します。

今から750余年前内大臣久我通親(みちちか)を父とし摂政太政大臣藤原基房(もとふさ)の娘を母として京都に生まれました。

時恰も貴族社会が倒れ武家政治が展開する激しい戦乱の時世であり幼年期に人生最大の不幸である三才にして早くも父を失い、八才には母までも亡くなられて天涯孤独の身となられたであります。

道元禅師が生まれられる約20年位前に浄土真宗をお開きになられた親鸞聖人が誕生になっておられます。親鸞聖人も幼にして父と死別なされ母も八才の時なくなられて悲惨な運命にみまわれて九才の時得度して居られその時作られた歌が

明日(あす)ありと思う心のあだ桜
よはに嵐の吹かぬものかは

で御座います。

この様にその時代は激しい移り変わる混乱の世に両親の死を眼前にして世間の無常がひしひしとあふれた事で御座いましょう。そして内心深く出家求道の決意を堅められたのであります。

13才の春比叡山に於て得度し山上にあって修道に明け暮れたのであります。ところが当時の叡山は仏教本来の使命である世の平和と人の心のやすらぎを願う事を忘れて権力、派閥の争いが繰り広げられ天台の教理はさておき加持祈祷を中心にした形式面だけに重点がおかれる様になって居りました。

真剣な修行生活に入った道元禅師は教学上の疑問に出あいました。それは「本来本法性天然自性心」(ほんらいほんほっしょうてんねんじしょうしん)(仏教の立場からは人間は生まれながらにして理想的な人格者たりうる素質をもちもともと完成された人格体であるといって居ります)若しそうならばなにも人格完成の為の努力することはいらぬのに歴代の諸仏諸祖はなぜ志を立て悟り(真理)を求めて難行苦行したのであろうか。というものでありました。

詳しくはニュースレター第34号を御覧ください。