禅の道 第4号    藤田彦三郎

禅の道 第四号    藤田彦三郎 昭和45年12月1日

道元禅師がなぜ京都より遠い越前の深い山の中に永平寺を開かれたかをお話しする順序として生い立ちと出家、求道の事に付いて記します。

今から750余年前内大臣久我通親(みちちか)を父とし摂政太政大臣藤原基房(もとふさ)の娘を母として京都に生まれました。

時恰も貴族社会が倒れ武家政治が展開する激しい戦乱の時世であり幼年期に人生最大の不幸である3才にして早くも父を失い、8才には母までも亡くなられて天涯孤独の身となられたであります。

道元禅師が生まれられる約20年位前に浄土真宗をお開きになられた親鸞聖人が誕生になっておられます。親鸞聖人も幼にして父と死別なされ母も8才の時なくなられて悲惨な運命にみまわれて9才の時得度して居られその時作られた歌が

明日(あす)ありと思う心のあだ桜

よはに嵐の吹かぬものかは

で御座います。

この様にその時代は激しい移り変わる混乱の世に両親の死を眼前にして世間の無常がひしひしとあふれた事で御座いましょう。そして内心深く出家求道の決意を堅められたのであります。

13才の春比叡山に於て得度し山上にあって修道に明け暮れたのであります。ところが当時の叡山は仏教本来の使命である世の平和と人の心のやすらぎを願う事を忘れて権力、派閥の争いが繰り広げられ天台の教理はさておき加持祈祷を中心にした形式面だけに重点がおかれる様になって居りました。

真剣な修行生活に入った道元禅師は教学上の疑問に出あいました。それは「本来本法性天然自性心」(ほんらいほんほっしょうてんねんじしょうしん)(仏教の立場からは人間は生まれながらにして理想的な人格者たりうる素質をもちもともと完成された人格体であるといって居ります)若しそうならばなにも人格完成の為の努力することはいらぬのに歴代の諸仏諸祖はなぜ志を立て悟り(真理)を求めて難行苦行したのであろうか。というものでありました。