深草興聖寺の夢の跡  平井満夫

前稿「道元禅師と政治権力」で触れた水野弥穂子著「道元禅師の人間像」を読んでいるうちに、京都深草の興聖寺の旧跡を訪ねてみたくなった。ここは道元禅師が中国留学から帰国されて初めて自分の寺として建てられたものである。この寺は応仁の乱で焼失し旧跡は残っておらず、今は宝塔寺という日蓮宗の寺になっているが、この目でそこを見れば何か得るものがあるかもしれないと思った。

現在の興聖寺は宇治にあり翠風講の旅行会でもお参りしたことがあるが、ここは江戸時代初期(1648)に当時の淀城城主永井尚政によって再興されたものである。一方、道元禅師によって天福元年(1233)に建立された深草の興聖寺は、正式には観音導利興聖宝林寺と称する。元々この地には平安時代初期に関白藤原基経によって開かれた極楽寺という大伽藍があったと伝えられている。その旧跡に建てられた興聖寺は、その後伽藍も徐々に拡充され、仁治二年(1241)禅師四十二歳の頃には興聖僧堂は五十人を擁する大叢林となったが、前稿に書いたように、比叡山延暦寺の圧迫を受け禅師は京から追放の身となり、ついに禅師一行は寛元元年(1243)の夏、秘かに興聖寺を捨て都を脱出して北越の山中へと向かわれたのである。その脱出行が果たしてどんなルートで行われたのかも実地で想像してみたくなった。

ガイドブックの地図で見ると宝塔寺は有名な伏見稲荷の南隣にある。伏見稲荷と同じ様に稲荷山の麓に位置している。平成28年5月中旬のこと、大阪に所用があった折を利用して京都で途中下車、宝塔寺を目指した。よく晴れて暑い日だった。京都駅からJR奈良線で次の東福寺駅に行き、ここで京阪電車に乗り換えて深草駅で降りる。京都駅からものの二十分くらいであろうか。駅からは伏見街道を南へ少し歩き、左折して山側目指して暫く行くと京阪電車と並行して走るJR奈良線の踏切がある。これを渡ると深草山宝塔寺(しんそうざんほうとうじ)の総門が目の前にあった。

総門をくぐるとなだらかな石段の参道が山へ向かって上って行く。仁王門をくぐると眼前に古い本堂の建物があった。それ程大きな伽藍ではないが、総門、仁王門と本堂は重要文化財だそうである。平日の昼さがりのこととて参拝客は私一人、辺りは森閑としていた。本堂の後ろ稲荷山に至る樹木の緑が目の覚めるように美しい。本堂に向かって左側に民家のような大きな建物があり、こちらも本堂とある。

「御朱印はこちら」と札があったので、そっと玄関の戸を開く。中は広々とした天井の高い土間である。「御免ください。御朱印をお願いしたいのですが・・」と大声を出すと廊下の奥から若奥様らしい女性が出てきた。朱印帖を出すと「暫くおかけになってお待ち下さい」と奥に引き返して行った。土間はひんやりとして涼しい。汗が引いてすっかり気持ちよくなった。

待つこと暫し。奥から今度は少し腰のまがった上品なご婦人が出てこられた。多分この寺の奥方であろう。「妙法」という御朱印を頂いた。「ようこそお越しで。失礼ですが、どちらからお見えで?横浜から?それはどうもご足労さんでございます」という調子でしばらくは世間話。道元禅師について聞くと、確かに禅師はここに興聖寺を建てられてお住まいになっておられたが、それがどの辺だったかは全く分からないとのことだった。御朱印のお代はと聞くと「二百円でございます」とのこと。「普通は三百円ですが、二百円でいいのですか?」と聞くと「ええ、結構でございます」とのこと。なんだか百円得をしたような気分で下山した。総門を出て後の山の方を振り返り、寺の全体的な立地を見渡してみた。

「深山窮谷(しんざんきゅうこく)」とは言わないまでも、ここは稲荷山の麓にあって、それに近い広い寺域の山寺の雰囲気である。当時の興聖寺の伽藍がどれくらいの大きさだったかは想像する以外にないが、現在の宝塔寺の本格的な寺構えから推察してかなりのものだったと思われる。しかも、極楽寺という巨大寺院の跡だけに将来拡張の余地は十分にあったであろう。

「国王大臣に近づかず」という条件を満たしてはいないが、つかず離れずという所であろう。深草という所は京都と言っても洛中からは少し離れている。今でこそ京都駅から半時間以内に行けるが、当時にすれば洛中からは歩いて数時間はかかったであろう。当時は四条通りでさえ人家はまばらだったらしいから、この辺りは文字通り草深い田舎だったであろう。後で述べるが禅師としては王勅を得るべく朝廷との交渉などの都合上あまり都からはなれていては不都合で、ある程度洛中に近いことが望ましかったのである。

要するにこの寺の立地からは、仮住まいではなく、ここに腰を据えて修行道場を創ろうとされた道元禅師の壮大な意気込みが感じられるのだ。折しも禅師を慕って多くの弟子が集まり、正に大叢林に発展しようとしたその時に、禅師らは忽然として興聖寺を後にされたのだから尋常ではない。曹洞宗の記述には「波多野義重のすすめで」とあり、いかにも気軽に興聖寺を去って北越に移られたような印象を与えるが、ここを禅師が放棄されることなど、余程の事がない限り考えられない。しかもその行き先が大寺というのならまだしも、北越山中の無住の古寺だったとあっては何をか言わんやである。京から追放というよんどころない事情があってはじめて納得がゆくことである。

中国留学からの帰国後深草興聖寺に至る時期の道元禅師は、政治によって日本国を救う代わりに、宗教によって救おうという気概で王勅を得るべく朝廷に働きかけておられた。この時期に書かれた弁道話には

「国家に真実の仏法弘通すれば、諸仏諸天ひまなく衛護するがゆえに王化(天子の治世)太平なり。聖化(聖天子の治世)太平なれば、仏法そのちからをうるものなり」

とある。弁道話の終わりの部分では禅師の仏国土の理想が述べられている。平たく言うと、今この国では間違った仏教が横行して世は乱れているが、天子をはじめとして上の施政者が正法のもとに坐禅弁道すれば、下の者は自ずからそれに従い、日本は平和に治まるというものである。

おそらく禅師は朝廷に対してもこの理想を説かれたのであろう。自らは世俗的な政治的野心など持たない禅師のことであるから、歯に衣を着せることなく極めて直截に自説を展開されたであろうから、余計に比叡山延暦寺の反感をかったのであろう。

宝塔寺の「しおり」には興味ある事実が書かれている。寛元元年(一二四三)叡山遊学中の日蓮聖人が興聖寺に道元禅師を訪ね、曹洞の奥義を学ばれたとある。どの様な問答が交わされたのであろうか。想像するだに興味深い。禅師は仏国土の理想をとつとつと説かれたかもしれない。後年日蓮聖人が「立正安国論」を著されたヒントは、ここにあったかもと想像するのは穿ち過ぎであろうか。いずれにしてもこの頃仏教立国のビジョンを、大っぴらに唱えた仏教指導者は禅師と、その後は聖人を以って最後となる。聖人が佐渡へ流されて以降、武家支配の続いた日本ではこの様な仏教指導者は現れなくなった。

さて、禅師の京中追放が決まり、禅師一行の都からの脱出行が行われたのだが、それはどの様にして行われたか想像を逞しくしてみた。脱出と言っても禅師お一人ではない。波多野家の護衛に加えておそらく相当な人数の僧がお供したことであろう。これだけの大人数が叡山の僧兵どもに見つからずに脱出するのはそれ程容易なことではなかったであろう。普通に東山の粟田口から蹴上を通って山科へ抜ける東海道を通ったのでは、おそらく叡山の見張りに容易に取捕まったのではないかと思う。

しかし、今こうやって稲荷山の麓にある宝塔寺の地形を眺めてみると合点がいく気がしてきた。稲荷山は京都の東山山系の南の端に位置している。ここで山系が切れているのだ。これなら禅師一行が稲荷山の南麓を迂回して東に向かえば、山科盆地に出て浜大津方面に抜けられる。或いは六地蔵から間道を瀬田方面にも出られる。こうして叡山の見張りをかいくぐることが出来たのかもしれない。それとも都から出て行く分には見張りも敢えて見過ごしたのかもしれない。いずれにしろ、大津辺りから船で琵琶湖を渡り、長浜辺りで下船して越前へと歩まれたとすれば、脱出も無事行われたことであろうと納得出来た。

今回宝塔寺に深草興聖寺の跡を訪ねてみて、自分なりに確信に近いものを得ることができた。要約すると、道元禅師にとって永平寺は中国から帰国後の最初の目標ではなかったこと。つまり最初から「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住する」つもりでは無く、禅師の夢はあくまで王勅を得て国家宗教として正法を弘通することにあったであろうということである。そうでなければ、この様に格式の高い場所に興聖寺を建てようとなさる筈がないと実感した。

前稿で述べたように、水野氏の主張は、師如浄の餞別の言葉は「祖道を弘通しなさい」だけであって、「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住して」云々は後世の伝記が付け足したというもので、確かにその推論は当たっていると思う。師如浄に帰国の挨拶をされる弟子道元は、類稀な才能に光輝く若き青年僧である。帰国後の夢をふくらませておられたであろう。しかも関白の孫として日本国のリーダーたり得るエリート中のエリートである。師如浄もそれは分かっておられたであろうから、余計なことは言われなかったに違いない。

しかし、師如浄が「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住して」と言われたという説が仮に正しかったとしても、禅師の行動指針は決まっていたのだ。禅師としては「祖道を弘通する」ことこそが師如浄の言葉の核心であって、この根本さえ保つならば、あとは多少師のやり方とは違っても自分なりに我が道を切り開いて往く、それくらいの満々たる抱負と確固とした信念を持っておられただろうと私は思う。深草興聖寺の存在そのものが何よりもそれを物語っている。

さて、都落ちされる禅師の心境はどの様であったであろうか。私は意外にさばさばとしておられたのではないかと想像する。確かに王勅を得て正法を弘通するという興聖寺の夢は潰え去ってしまった。また、興聖寺の伽藍に未練が無い訳ではなかったであろう。しかし、比叡山がこれほどまでに横槍を入れてくるのなら万やむを得ない。正法を弘通する道は他にもある。今度こそ天童山の師如浄の様に「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住して祖道を弘通しよう」と心に期するものがおありだったのではなかろうか。その夢は北越の厳しい冬を二度も耐えて後やっと永平寺として実現されたのであった。

               (平成29年1月)