悉有仏性 平井 満夫 

      仏式のお葬式で葬儀屋さんの口上を聞いていると、棺に入った故人だけが仏(ほとけ)様で、式に来た参列者を(ほとけ)とは言いません。もしそう言おうものなら「俺はまだ生きてるぞ」と参列者からお叱りを受けることでしょう。これが仏教社会の一般常識というものです。一方、余語翠巌老師はよく「死んで(ほとけ)になるというような呑気なことではないのですよ。生きているみんなが(ほとけ)なのですよ」と仰っていました。一体どちらが本当なのでしょう。

今回の老師の御垂示にもあるように、道元禅師は正法眼蔵の「仏性」の巻で釈迦のお言葉「一切衆生悉有仏性」を一切衆生とは人間のみならず山川草木全てを指し「悉有は佛性なり」と喝破しておられます。そして何故そう読むべきかを古い仏典を次々引用して説明しておられます。約八百年前の当時の仏教社会の一般常識(今も変わっていませんが)に対するアンチテーゼを提唱しておられるのだと私は思います。

日々の生活の中で「人間悉く仏性あり」と読んで、自分のような欠点だらけの人間でも(ほとけ)になれる可能性は持ち合わせているのだから、少しでも(ほとけ)に近づけるように努力しようと考えるのと、「悉有は佛性なり」と読んで自分は(ほとけ)なのだからゆったりした気持ちでいましょうというのでは、気持ちの持ち方が違うように思います。前者では真面目なのは結構ですが、なんとなく堅苦しく余裕がありません。後者では心安らかです。老師のお言葉を借りれば大安心の境地です。同じ泣き笑い人生でも(ほとけ)の泣き笑い人生なら気楽なものではないでしょうか。だからといって(ほとけ)なのだから努力しなくてもよいというのは物事が分っていないということなのでしょう。

一切衆生悉有仏性を「悉有は佛性なり」と読む考え方は、この世界の成り立ちと符合しているように思われます。我々人間を含めて地球上のあらゆる生き物は、太陽の光と地球上の土と空気と水があってこそはじめて生存出来ます。太陽系の中で地球が生成したのは四十五億年前だそうですが、約四十億年前に生成した細胞(原生細胞と云います)から菌類や植物や動物に分裂進化して、今では人類を含め3千万種を超える生物が存在する訳です。その意味で地球上に存在するあらゆる生物は、遺伝子の一部を共有する一つのファミリーと言えます。

釈迦や道元禅師がこの様な生命科学的発展過程を把握していた訳では勿論ないでしょうが、直感的にこの世の生きとし生けるものを一つの仲間として「佛性」と認識されたのは素晴らしいことだと思います。この認識から自然な形で慈悲という情念が滲み出てくるのでしょう。

さて、生き(ほとけ)も先ずは食べなくてはなりません。すべての生き物は他者の命を奪って食べています。ありていに言えば(ほとけ)が(ほとけ)を食べる訳です。(ほとけ)の共食いと言ってもよいかもしれません。共食いで間違いを犯すと大変なことになりかねません。戦争は人間同志の共食いとみてもよいと思いますが、人類が核戦争を起こすと地球上の生き物は絶滅する可能性も否定出来ません。その意味で我々人類は絶滅危惧種の一つかもしれません。

インドネシアの鯨を主食にする或る村で取材した石川梵(ぼん)という写真家はこんなことを書いています。「鯨食という行為は野蛮でも残酷でもない。むしろ神聖であり崇高にすら思いました。すべての生き物は生きるため他者の命を奪う。それは殺戮ではなく命の循環であり、尊い生みの営みなのです」と。(朝日新聞三月二十五日・二〇一九)生き物という存在の本質をついた言葉だと思います。「不殺生戒とは(ほとけ)の命を殺すなということだ」と老師が仰ったのはこのことでしょう。食物には敬意を持って食せよということでしょうか。典座教訓にある通りです。

先年豪州の「シー・シェパード」と称する反捕鯨団体の男性が日本の捕鯨船に体当たりする事件が相次ぎました。毎日のように牛や羊を食べて平気な連中が何故鯨取りだけを目の敵にするのか不審に思っていましたが、この活動を撮影していたサイモン・ワーンという豪州の写真家の説明によると、「キリスト教では人間は神が作った特別な存在です。動物は人間のために作られたものなのですが、知識の高いクジラは別。人間に近い存在で『一頭も殺してはいけない』という理屈が浸透しやすいのです」とありました。(朝日新聞二月九日・二〇一九)成る程彼等の動機はそういうものかと思いました。別にキリスト教を誹謗するつもりはありませんが、キリスト教的な物の見方はこんなにも人間中心的なのかと気になります。

「人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉がありますが、ここにも人間だけが明晰な頭脳を持っていて考える能力があるのだというキリスト教的な人間中心の優越感が裏にあるように思えてなりません。では葦は考えていないのか。いやいや葦だってちゃんと考えています。その証拠に葦は湿地で繁殖しています。葦に頭脳は無いけれど葦の細胞は何処なら生きられるか考えているのです。「悉有は佛性なり」は我々の存在の本質をついた仏教の核心の言葉だと思います。生きていてこそ仏(ほとけ)です。 (令和二年一月)