仏性とは何か 余語 翠巌

      涅槃経というお経に一切衆生悉有仏性と書いてあります。悉有はしっっと読みます。仏性というはどういうことをいうのか。ちょっと簡単には言いにくいのです。悉く仏性有りというように読むのが普通ですが、そういうふうに読むと、仏性というものが私達の中にあって、修養したりなんかしているとだんだんその能力、が伸びていって、仏さまになるのだというように考えられます。

ところが道元禅師は、『悉有は佛性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正常恁麼時は衆生の内外すなはち佛性の悉有なり。』と書いておられます。悉有は仏性なりと読む。悉有というのはことごとくあるというのですから、一切の存在が仏性なのである、ということです。清浄、不清浄と分けたものでなく、全部包んだものです。

悉く仏性有りと読むと、そういうわけにはいきません。自分の体の中に仏性というひとかたまりのものがあって、それがだんだんと伸びていくという感覚にたるわけです。有という、あるということは所有するということですから、自分が仏性をもっておるということになります。仏性の輝きを早く出せるように信心をしなされや、と普通は説教するが、道元禅師が言われるのはそんなこととは違うのです。

そうではなくて、仏性の中に己があるのだというのです。天地の命の中の一分を生きておるというこの命は、仏性の中に白分があるのです。関係が逆になります。

一切の存在は仏性である。お互いさまは一切の存在の中の一群である。正常恁麼時というのも使い言葉で、この頃流にいえば、・・・であるからという意味です。衆生の内外(ないげ)というのは一切存在、目に見える存在全部、それが仏性だ。衆生という字は生きておるものという感じで受けとられます。命あるものという時には動物とかを考えがちですが、山川草木全部ひっくるめて、仏性というのだ、天地の命が満ち満ちているということです。

みんな仏性、天地の命の中の姿なのです。寸法が足りようが足りまいが、かくの如きものがかくの如くここにある。これは努力で到達できる世界ではありません。人間の努力によって到達できるところはたくさんありますが、その世界とちがうところです。宗教の世界は人間の努力の世界とはちがうのです。ではボヤーとしていればいいかというと、そうでもない。ちゃんと努力する世界なのです。

今、この一生涯に限ってみても、どれがよくてどれが悪いということはないのです。私も三河の山奥で生まれていろいろなことをして今まできているが、どれがよくてどれが悪いということはないのです。あのことをしたからこうなったということもありますが、どういう縁でそういうことをしたか。それも考えられるが、皆そのままで受けとればそれでいいわけです。こういうふうになったらいいなあというのは、だいたいそれは我がままなのです。あの人と一緒になったらしあわせだろうなあといっても果してそうなるかならんか、なった後のことを考えておらんのです。 

任せきっておけば何かになっていきます。しまいにお互い死ぬのだろうけれど、死ぬだけは間違いなさそうです。そこにいくまで、こうありたいと思うなというわけではないが、そのことに執着せず、どういうふうになってもそのままでおれるだけのものをもっていれば、ことは足りていくわけです。

死にとうない、死にとうないと思いながらみな死んでしまうし、死にたい、死にたいと思っていても死ねないでいる人もいるし、世の中はなかなかやっかいなものだ。その時、その時が全き時だと思えるようにしておくのが一番いいのです。このことが、直截根源人未だ識らずということです。

 今まで文化がずっと進んできたというが、それがよいのか悪いのかわからないでしょう。今、皆困っているでしょう。科学の技術は盲目のようです。どこへいくのかわからん。

いろいろなことがあっていろいろな姿がでてきても、それが全部仏性だ。はずれるものは一つもないというのです。これが大安心(だいあんじん)です。

孫悟空か觔斗雲に乗って逃げたという話がありますが、いつまでも阿弥陀様の掌から逃げられないという話です。どんなことしても逃げられるわけはないのです。それではじめて安心です。「ああ、悪いことをした」と思って弁償しなければならない、あるいは牢に入らなければならないかもわからない、けれども仏性の中からはみ出すわけではないのです。

理屈でいうと、みんな救われていて仏性の中にいるんだから、人のものをとってもいいじゃないかと言う人は、そのことがわかっていないやつだ。実際にわかっていたらできやせん。頭でこねまわしているから、そういうことになるのです。

その大安心の中にいたら、自然に人に迷惑をかけるようなことはしなくなるのです。お恵みの中にいたら、人のものをとったり、人を殺したり、実際にはできないものです。本当にわからん奴がそういうことを言うのです。

仏性というのは、そういう意味合いからすれば、天地いっぱいの命というような受けとり方をしておくのが一番よいでしょう。その外へ出ることができない、そういう命のありかたです。その中にはよいとか悪いとか評価がないのです。できるとかできないとか、人間の尺度でそういうだけで、そういうものが成り立たない世界です。絶対の場所です。一つ一つが絶対なのです。凡夫の情量もまた仏性ですね。深く人間のことを考えてみるとよくわかる話です。

余語翠巌著「これ仏性なり」正法眼蔵 仏性 講話  地湧社刊(一九八六)より抜粋